長野原町かるた

長野原町かるた全札まとめ(群馬の郷土かるた)

長野原町かるた

どうもブゲンです。この記事では、群馬県長野原町の郷土かるた「長野原町かるた」を紹介していきます。

上毛かるたを制作した浦野匡彦氏が誕生した町でもあります。

彼の父が神主を務めていた王城山神社は、上毛かるたファンにとって聖地のような場所になっています。

この記事で知れること

・長野原町かるたについて

・絵札、読み札の解説

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長野原町かるたについて

長野原町かるたは町制施行100周年記念事業の一つで制作されました。

平成1年7月31日に発行されています。

郷土の歴史や産業について学び、知識を深め、郷土への愛情を高めていくことを目的に作られました。

毎年11月に小学生を対象にしたかるた大会も開かれているようです。

制作は長野原町、絵札は3人の人物によって描かれています。違いを楽しむのもいいですね。

印刷は朝日印刷工業株式会社(前橋市)です。

絵札、読み札の解説

あ〜お

丁杭観音

天明3年(1783)浅間山の大噴火により六里ヶ原は一面の砂原となり、風吹けば道は消え、雪降れば一面の雪原となり、旅行く人々は道に迷ったので分去(わかされ)の茶屋に基点観音を立て、大笹(おおざさ)、狩宿新田、沓掛(くつかけ)の三方面に一丁毎に道しるべ観音を建てて旅人の行先方向を示した。

一里松

一里松は、一里塚と同じように旅行く人たちに道のりを示したもので、永い年月の間に枯れたり開発のために伐採されたりしてほとんど残っていない。二軒屋から右折して約1kmほど入った所に1本の老松があり「一里松」と伝承されている。ここから分かれて右へ進めば日影を経て入山へ、左に分かれて登ると湯窪(ゆくぼ)を経て旧草津道に出られる。

羽根尾宿

江戸時代から明治初期にかけて草津温泉への湯治客は、狩宿新田や羽根尾の宿で馬や籠から下りて一休みした。そして、火災予防や冬季の寒い西風除けのため、宿の家屋は屋根より一段高く厚壁で防火壁が作られ、これを「うだつ」といった。しかし、建築様式も変わり現在、町内では羽根尾に一軒残っているだけである。

久森の峠

野口円心は享保11年(1726)川原畑村に生まれ、中年の頃、岩下応永寺十四世大活和尚に仕え、十五世玄明和尚の時には山門を作り、諸国を巡り貧しい人々を助けたり、町内では旧道陸神峠や久森峠を掘り開いたり、旧道を開通したりして町の発展に尽くした。75歳で没し、墓は矢倉駅上がり口右側にある。

いたやかえで

お塚は、浦野家過去帳によれば「大乗院村信法印寛永2年3月お塚の神也」とあることから権大僧都法印を葬った墓地であるが、村信以前よりの大乗院墓所であった。お塚の形状は円墳で頂上に石祠が建っている。町指定文化財のイタヤカエデの大木が根を張り、重なりあっている葉がお塚を守っているかのように見える。

か〜こ

勘場木

昭和28年、勘場木の塩野新一氏住宅前の田んぼで発掘された竪穴式石器時代住居跡で中央に大小2つの炉や周囲に12個の柱穴があり縄文時代中期の遺跡である。土器や石器も多数出土しており、約4500年前から祖先が住んでいたことを物語っている。昭和30年に群馬県指定重要文化財に指定された。

北白川宮

北白川宮殿下には明治16年5月、六里ヶ原の地を選ばれて浅間牧場を開設され農務局種畜場の純粋牝馬を払い下げ放牧し、産馬改良に着手されてから西吾妻の地域は産馬地として有名になった。その後幾度かのうつり変わりを経て、現在は県有種畜場によって創設された浅間牧場となった。

野口茂四郎

野口茂四郎は安政3年(1856)川原畑村の財閥不二吉の長男として生まれた。少年時代より儒学及び学心流剣道を修め、慶應義塾にも学ぶ。明治16年県議会議員となり、同26年県議会副議長に就任、県政で活躍した。又、西吾妻開発のため道陸神峠を4年がかりで切り開き私財を投じて開通させ大きな功績を残した。この新道を人々は野口新道といった。第8代町長。

王城山

王城山神社では毎年8月28日の例大祭に幼稚園から中学生までの子供たちに相撲をとらせ勝敗に関わらず祝品を与え勇武なご神徳をたたえた。神事となってすでに数百年の伝統を持ち続けている。昔は米粉で人形をつくり男子にもたせて神前に投げてその身の守りと健全な成長、子孫の繁栄を祈った。

浅間園

浅間園は、上信越国立公園の中心として昭和38年、自然研究路、鬼押出し橋及び浅間橋、管理棟、売店を建設、同年8月8日浅間園本館の建設設備によって開園式が行われた。後年、浅間園内に売店や食堂の開店により園外七棟の売店は廃止された。火山博物館や後にスキー場も整備され四季を通して観光客で賑わっている。

さ〜そ

三国道

羽根尾より北軽井沢へ分かれる交差点は国道144号線(羽根尾上田間44.5km)同145号線(羽根尾沼田間50.5km)同146号線(羽根尾中軽井沢間32km)の三国道の起点となっている全国でも珍しい地点である。

桜井伝三郎

明治21年4月、法律第一号で町村制がしかれ、翌22年5月実施となり従来の戸長役場制は廃止され、独立していた村々は統合され長野原町が誕生した。当時役場庁舎がなかったので雲林寺を借用し、初代町長として人格円満で人望の高かった桜井伝三郎氏が就任し、旧役場、学校建築等幾多の功績を残した。

須賀尾路

弁天橋は国道145号線より南に分かれ、林と横壁をつなぐ吾妻川にかけられた橋で、古い木橋の頃は川のほぼ中央に切り立った弁財天のまつられた岩山に橋脚が立てられていた。橋を渡って急坂を登りつめると須賀尾峠で、峠を越えると須賀尾の清水に出られる。現在は古い橋から立派な永久橋に変わった。

丸岩城

丸岩城は横壁南方にそびえる標高1,130mの半円形岩山の頂上に築かれ、北面は玄武岩の岩肌を現して直立し、頂上はこんもりした樹木で被われている。この城は戦国時代、南方から侵入をねらっていた北条氏等をくいとめる要害であった。登山口は須賀尾峠方面からが順路となっている。

朝比奈三郎

朝比奈三郎は、鎌倉幕府創立に活躍した和田義盛の第三子で、健保2年(1214)和田合戦で勇名を轟かせたが、父兄弟ともことごとく討たれ安房の国へ逃れ行方を隠した。その後、木曽の残党の潜入した西吾妻の地へ向かったのではないか。狩宿に朝比奈三郎の墓とつたえられる五輪塔がある。

た〜と

宝篋印塔

信州高遠は良質の石材に恵まれ優秀な石工が出たところで、江戸時代、歴代藩主はその技術を藩外にまで普及させるため出稼ぎを奨励した。県下各地に優れた石造物が残されているが、本町には川原畑諏訪神社に立派な宝篋印塔が残されており、町の指定文化財になっている。

中世偲ぶ

中世(鎌倉時代~室町時代)の遺物は町内では大変少ない。その中で中央小学校に保管されている板碑と、与喜屋にほぼ完成で残る二基の宝塔は、本町の中世の歴史を知る上で大変貴重な石造物であり、共に町の指定文化財となっている。板碑は延文2年(1357)と刻まれ、宝塔は応永年間(1400年頃)の作と推定されている。

お茶講

大字林の掘の内組では先祖の時代より初天神の1月25日に今でもお茶講が行われている。その目的は新しい年の農作物の豊作と不作とを占い1年の作付けの参考にするもので、クジを引いて、数種類のタネ茶を飲み回し、その結果で年の豊作を占う。西吾妻では唯一ヶ所残る古い行事である。

新井村

新井村は、わずか五戸という小村であった。天明3年(1783)浅間山大噴火で吾妻川に流れ込んだ熱泥流に押し流され、小村はほとんど全滅してしまった。村の南方雑木林の中に当時の墓地が残っているが、向かいあった約30基の墓石は無縁仏として寂しく眠っている。現在総合運動場になっている敷地の大部分が往時の新井村であった。

箱岩城

永禄6年(1563)岩櫃城主斎藤越前守は、真田幸隆(ゆきたか)の吾妻侵入を防ぐため白井城の援助を得て東吾妻の侍衆が団結して箱岩城へ進軍。一隊は小雨方面より一隊は林方面より攻め入った。この頃、箱岩城は常田新六郎が大将で守り、琴橋、須賀橋を切り落とし諏訪神社辺りまで進出し防戦に努めたが無勢のため敗れた。この戦いを長野原合戦という。

な〜の

狩宿関所

中山道裏街道は、板鼻宿より分かれて須賀尾峠を超え狩宿宿を通過し沓掛(くつかけ)方面に通じる脇往還である。草津方面への浴客や行商人等の通る道路で、途中狩宿に領土治安維持のため寛文2年(1662)関所が設置された。以後明治元年に廃止されるまで200年余り治安維持にあたった。現在、関所跡の碑が建設され往時を偲ぶことができる。

草軽電鉄

草軽電鉄は最初、草津軽便鉄道といわれ草津温泉と信越線を結ぶ西吾妻にとっては重要な鉄道であった。大正15年、全線(55.52km)が開通した。新軽井沢駅より7番目が二度上駅になるが、急勾配で駅への上り下りに段差があるためスイッチバックで昇降したので二度上の名がつけられたという。交通網の発達により昭和37年全線廃止となった。

照月湖

照月湖は、北軽井沢中心部より1.5kmという近距離にあって、昭和5年、大学村の第二次地域拡張工事の一環として楢沢(ならさわ)の水をせき止め池沼にしたもので、当初「楢沢の池」といわれていた。その後、照月湖と命名され、観光地として夏はボート、冬はスケートで賑わっている。

南木の山

浅間山北麓の山々は古くより南木山と呼ばれ、江戸時代は狩宿村外四ヶ村の入会山だった。寛文4年(1664)の古文書に信州との国境入会い争論がみられる他、様々な古文書に南木山の名がみられる。天明3年(1783)の浅間山の大噴火により森林一帯は砂礫ヶ原と化したが、以後200余年、南木山は年輪を重ね樹木うっ蒼と映えている。

野仏

横壁東村入口のわきに、宝篋印塔やいくつかの野仏と一緒に一対の金剛像が立っている。金剛像は仁王様ともいわれ、金剛の知恵により煩悩を断ち真実を明らかにする法力を持っているという。この仁王像は郡内でも稀にみる石造物で周囲の石仏とともに村中の安全を守っているかのように見える。

は〜ほ

羽根尾城

羽根尾城跡は、城峯山頂に往時の遺跡を残している。戦国時代、羽尾氏の本拠で羽尾幸全入道とその舎弟海野長野守、能登守兄弟もここから出ている。兄弟とも勇猛な武将で、岩櫃城代として吾妻郡を支配したこともあった。特に弟の能登守は近隣にも稀な荒武者で百人力といわれた。戦国時代、郡内の代表的な武将であった。

百八灯

川原畑字東宮の三ツ堂には閻魔さんがまつられている。毎年お盆の8月16日は子どもたちが盆飾り竹を毎戸からもらい集め、それを1mくらいの長さに切り先を割ってローソクを挟み、お堂を中心に参道沿いに108本立て一斉に点火する。火は焔をあげ燃え上がり壮観である。人間の持つ108の煩悩を鎮める行事である。

不動滝

上湯原不動堂奥のがけ道を通り抜けると、遥か目の前に不動滝がある。燕岳の山麓から発した不動沢の渓流が、不動堂奥のがけから三段の滝となり落ちているもので、一番最初の一の滝は高さ約30m、次の二の滝は約20m、三の滝は約40mで最も壮観である。

別荘

北軽井沢の別荘のはじまりは、大正から昭和の初めにかけての一匡村(いっきょうむら)と大学村である。一匡村は大正12年に東京大学関係者により、大学村は昭和3年に法政大学関係者により開村し、以後、避暑地軽井沢の開発とともに歩んできた。今では別荘の数も増えゴルフ場、テニスコート等も整備され多くの避暑客で賑わっている。

洞口

昔の草津道は、洞口の北側、山の尾根伝いに草津の運動茶屋へ出たものであったが、明治初期に現在の道路まで下って道幅も拡張された。明治31年頃から草津行き赤馬車や人力車が通るようになり、洞口の門屋という立場で乗客は一休みしたものである。立場には人力車も用意しており、草津温泉への客で賑わった。

ま〜も

町の木

落葉松は松科に属し、当地方には大変適している。春が訪れると松葉の先が、薄緑の新芽を吹き見事である。幹は真っすぐに伸び、秋になるとその葉は黄色に変わり山は黄金色に輝き、その後、潔く落葉する。町では落葉松の四季の美しい変化と立地に適した樹木として、町の木としている。

町民憲章

町では町政施行90周年に当り、昭和54年10月18日、記念事業の一環として町民憲章五項目を制定した。先人の歩んできた苦心の歴史と伝統を継承して誇りと希望を持って輝かしい町作りのため、各自の信条として実践していきたいものである。

紫つつじ

紫つつじはツツジ科に属する植物で陽春にさきがけてかれんな紫色の花を開く。特に渓谷に咲く、岩場の紫つつじは格別に美しい。早春の寒さにもめげず春を告げるかのように開花するのはまことに雄々しい感じがする。昭和59年11月に町の花として制定され、町民に親しまれている。

雲林寺

雲林寺は、当町役場の東隣に所在する。国道沿いの山門をくぐり石段を登りつめた突き当たりが本堂である。碓氷郡後閑村(現在安中市)長源寺八世為景清春大和尚の開山で、天明3年の浅間山大噴火により流失したが、その後20余年経て再建された。本堂をはじめ建築、彫刻等、美麗であり、宗派は曹洞宗である。

吾妻渓谷

吾妻渓谷とは、吾妻町の松谷雁ヶ沢から当町の下湯原辺まで約4kmを言うが、この間特に熊の茶屋、野猿茶屋の吾妻川岩壁は両岸迫り谷は深く、稀に見る絶景である。地理学者の志賀重昂(しがしげたか)は、この渓谷を見て関東耶馬溪と呼称したのにたいし、頼山陽は絵のように美しい谷であると激賞した。春の新緑と秋の紅葉の景色は格別である。

や〜よ

やまどり

やまどりは、キジ科に属する鳥で、当町の山林には相当棲息している。からだ全体は褐色で、特に雄は目の周辺は赤く、尾は長く伸びて黒い節目があって美しい鳥である。山道あたりで急に藪の中から強い羽ばたきで飛び出され、びっくりすることがある。この鳥は県の鳥であるとともに、昭和59年11月、町の鳥として制定された。

湯かけまつり

川原湯温泉では、毎年昔の故事にならい、1月20日の夜明け前に地元の若者によって湯かけ祭りが行われる。太鼓を合図に神社役員の方々と褌ひとつの若者が湯畑に仮設された神殿に集合し、神主による神事が終わると若者たちは王湯に飛び込み、桶に湯を汲み、紅白に分かれ「お祝いだ」と叫びながら湯を掛け合う。その様はまことに壮観で、全国的に例のない奇祭である。

養蚕

与喜屋に鎮座する養蚕神社(荒神さん)は毎年5月15日が大祭で、遠近の崇敬者が多数参拝に来る。境内の神楽殿では村人により太々神楽が奉納され、また境内には農具、蚕具、その他各種の露店商が軒を並べ、養蚕大当りを祈願する参拝者をはじめ、子供からお年寄りまで大勢の人出で終日賑わいをみせる。

ら〜ろ・わ

酪農

戦後、国策による食糧増産と将来の活路を求めるため、浅間高原へ各地から集団的に入植があった。当初は丸太柱に笹の屋根という苦難の続く日々であったが、その困苦にもめげず、原野を開墾して食糧を自給し、乳牛を導入し、さらにリンゴ苗を育て野菜も良質なものを生産し、今では全国的にも成功した開拓地といえるまでになった。

常林寺

常林寺は大字応桑字道祖神にあり、宗派は曹洞宗である。弘治元年(1555)無庵正慈大大尚の開基といわれている。天明3年の浅間山大噴火により流失し一時、今井に移ったが文政年間に再建され現在に至っている。その昔、寺の再建を図ったが人夫が集まらず難渋した。その時、近くの老松の大木に白竜がわだかまり、毎夜真昼のような光を出したので、たちまち出来上がったという。

瑠璃光

瑠璃光薬師堂は、町の北方の箱岩の下にあり天明3年の浅間大噴火の時も、この御堂だけは被害を免れた。現在御堂は寛延2年(1749)の建築といわれ町内で最も古い建造物の一つである。本尊は薬師如来で雲林寺に属している。毎年、4月と7月の17日が例祭で祭典が行われている。

大けやき

横壁神社の境内にそびえたつ大けやきは、根回り8.60m、目通り6.80m、高さ約30mという巨木で、樹齢約300年といわれている。町内の各神社に大木が残されているが、このけやきが最も太いと思われる。樹幹に落雷の傷らしいものがあるが、樹勢はなお旺盛で、町の天然記念物に指定されている。

川原湯岩脈

川原湯岩脈は、大字林地内国道145号線の久森トンネルの西側山沿いのがけより対岸の川原湯にかけて露出している。その形状によりトンネル寄りのものを昇龍岩、150mほど西方のものを臥龍岩と呼ぶ。これらの岩脈は地層割れ目にマグマが噴出し固まったもので、両方とも岩脈として典型的なものであり国の天然記念物に指定されている。

長野原町

町民の体育奨励のため、旧新井村の地域に大規模な体育館を造営した。昭和54年12月15日着工、55年の秋に完成し、同年10月10日の体育の日を期してオープンという突貫工事であった。若人の館と呼ばれる体育館の他、陸上競技場、野球場、テニスコート等が設けられ、総合運動場として、若者をはじめ広く町民に活用されている。

  • この記事を書いた人

ブゲン

食べることと群馬の郷土かるたが好きなブロガー。好きな食べ物は「餃子」好きな上毛かるたの札は「よ」 かるたが繋いだご縁で光GENJIの佐藤寛之氏とラジオ共演を果たし、ライブイベントでは司会や補助を頼まれたことも…。自分には無縁と思われた世界を知り、戸惑いもあったがやれば出来ると自信に繋がる。つまり何が言いたいかというと、かるたって人と人を繋げる不思議な魅力がある♪

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