中之条かるた

中之条かるた全札まとめ(群馬の郷土かるた)

中之条かるた

どうもブゲンです。この記事では群馬の郷土かるた「中之条かるた」をまとめています。

群馬県吾妻郡中之条町で制作された郷土かるたになります。

中之条町には有名な四万温泉などがありますね。

他にも自然を利用したアクティビティなどが体験できる施設が何箇所かあります。

そんな魅力あふれる中之条町のかるたには、どういった場所が読まれているかをこれから一枚ずつ紹介していきます。

この記事で知れること

・中之条かるたについて

・絵札、読み札の解説

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中之条かるたについて

中之条かるたは、平成9年3月に中之条町教育委員会により発行されました。

読み札には奈良秀重氏、絵札には鈴木ひで氏が携わっています。

印刷は上毛新聞社になっています。

次代を担う中之条町の子供たちに町の風土や歴史、文化や産業などを正しく理解し、郷土への愛情を深めてもらう目的で作られたかるたになります。

絵札、読み札の解説

あ〜お

名久田川

高山村、中山権現の今井峠付近から流れが始まる。西の方向に流れ、途中4つの川と小さい沢を合わせて中之条町に入り、赤坂川ほか小さい川が流れ込み、伊勢町の東で吾妻川と合流する。長さ約15.2kmの清流で、途中の田畑をうるおしている。近年になり、漁業組合で鮎の稚魚を放流し、夏には釣り人が多く見られる。

市代牧

平安時代の初期に勅旨牧(皇室用の馬を育てる牧場)のあった所で、上野に9つあった牧場の1つである。947年に「白波」という白馬を天皇に差し出して、大変ほめられたという。また、東村の新巻と奥田も市代牧に含まれていたといわれる。市城の白鳥神社は、昔、白頭馬明神(はくとうめみょうじん)といい、名馬白波を祀った神社である。

山百合の花

中之条町では、昭和55年1月1日、町民アンケート調査の結果をもとに、町の鳥・木・花を制定した。「うぐいす」は全町内に生息する美しい益鳥であり、「けやき」はしっかりと大地に根を張り、大空に生い茂る大木。「山ゆり」は清楚潔白で香り高い花である。いずれも町を象徴する鳥・木・花であり、町の発展の願いが込められている。

駅南

中之条盆地の中央、JR中之条駅南の約45haの水田地帯に、昭和62年から7年の歳月をかけて土地区画整理が実施された。工事の進行に伴い、弥生時代を中心に住居跡530戸以上の大遺跡群が発見された。特に、縄文時代の埋甕(うめがめ)、弥生時代の樽式土器・鉄器・銅製品、古墳時代の勾玉、平安時代の銅印・陶器など貴重な遺品が出土した。

冨沢家

国指定重要文化財。江戸時代の末期に三国街道の裏街道であった大道に建てられた代表的な大型養蚕農家。間口23.97m、奥行12.95m、二階建てで、屋根は入母屋・兜作り、1階は土間・ざしき・でえ・じょうだんに仕切られ、じょうだんは書院造りで、つり天井。2階は養蚕を行い、土間の東端に馬屋が4つあり、運送業を営んでいたことがわかる。

か〜こ

観音を

清見寺は、長禄2年(1458)に創建された浄土宗の寺院である。明治12年には、中之条小学校がこの寺で開校した。大正10年に全焼したため、当時の面影はないが、伐採を免れた樹齢数百年の欅郡(町天然記念物)に昔を偲ぶことができる。岌山和尚(きゅうざんおしょう)が寺を再興してから400周年にあたる平成8年には、大聖観世音菩薩の石像が記念に建立された。

いもとそば

高野長英は、江戸三大飢饉の一つである天保飢饉の時、救荒作物として馬鈴薯とそばの栽培をすすめる。「救荒二物考」という著書を刊行した。天保7年8月、弟子福田宗禎宅でそばを、柳田楨蔵宅で馬鈴薯を食べた。これがきっかけで「救荒二物考」が生まれた。長英と親交のあった渡邊華山が、挿絵を描いている。

群馬で

群馬県で最初の農業学校、現在の中之条高等学校の前身。明治32年吾妻郡立吾妻農学校として開校した。その後県立農業学校となり、農家長男の子弟が学び、農業技術の中心的指導者となった。明治35年、県立中之条農業学校と改称。昭和23年、戦後の教育改革により現在の学校名となり、総合学校として現在に至る。

赤坂川

栃窪から流れ出る、名久田川支流第一の川が赤坂川である。大道から流れ出て喋石沢など5~6の沢を合わせ、、塩平付近で岩本川と蟻川川と合流し、名久田川に流れ込む5.6kmの川である。この川の上流から川底傾斜が大きくなり、谷を流れる水の力によって、幾つもの滝や渕がつくられた。特に釜渕は、岩と岩の間を流れる水や渕が美しい。

町民憲章

中之条町の町民憲章は、町村合併20周年記念事業の一環として、昭和50年11月21日に制定された。美しい山河と輝かしい歴史・文化に育まれた喜びと自覚をもとに、中之条町の産業や文化が限りなく発展することを願って、町民憲章五項目が定められた。

さ〜そ

沢渡温泉

沢渡温泉は、無色透明で肌にやさしく草津温泉の仕上湯として栄えた。開湯年代は不明であるが、「万葉集」東歌の中に「さわたり」の地名がある。郡内最古文永7年銘の弥陀一尊画像板碑も出土している。昭和10年の水害、同20年の大火と二度の災害を復興し、保養型温泉地として、沢渡温泉病院や町営老人医療施設も設置されている。

四万の甌穴

昭和46年天然記念物として県の指定を受ける。「甌穴」は、秋鹿地内の四万川の河床にあり、川の流れによって川底の石が同じ所を回り、岩盤に円筒状の穴をあけたものである。ここには、大小8個、大きいものは口径8m、深さ3.2mを超えるものも見られる。数万年もの年月を経た自然の驚くべき産物である。

稲包山

稲包山は、四万川水源の山として山岳信仰の対象となっていた。吾妻町の大宮巌鼓神社は、稲包山の神を祀る里宮で、元慶4年吾妻郡司の坂本朝臣直道らが、稲裏神の神位を朝廷に申請して昇任された。下流の吾妻町原町には水源神の稲包山信仰があった。大宮神主高山真淹碑文による稲裏地神碑が、四万の登山口に建立されている。

先人の

承応2年(1653)に伊勢町ができたとき、沼田藩の殿様に用水路をつくることをお願いした。殿様は吾妻郡中の町村から人足を集め、赤坂川から横尾の間歩を通り、村を縦断して、伊勢町台地から直接流れる用水路と、上の町を通る用水路の二つの用水路を完成させた。明暦3年(1657)のことである。用水は、米作りに使われた。

文化13年(1816)に没した山田の富澤惣兵衛は、現在わかっているだけでも、46に及ぶ逸話を残した人である。村の人はもちろん、近村の人にまで知られ、いんごう惣兵衛・えんごう惣兵衛・ひうげ惣兵衛・えこじ惣兵衛の愛称で呼ばれ、茶飲み話などで語り伝えられた。大字山田531番地の富澤家墓地には、詮融一道居士と刻された石塔がある。

た〜と

下沢渡の「伊賀野のモミ」は、目通り6.3m、高さ36m、枝張りが15mもある。天をつくばかりの巨木で、樹勢も盛んである。四万の殿界戸(とのがいと)の竹井橋から峠を超え、伊賀野・上沢渡湯原を経て沢渡温泉へ通じる旧街道沿にある。昭和20年4月16日の沢渡の大火の時、周りの山は焼けたが、この木だけは残った。

親都神社

五反田親郡神社の御神木である。目通り9.6m、高さ約15m、吾妻町のケヤキに次ぐ大木である。昔、乳の出ないお母さんが乳の出るようにと願掛けをしたこともあった。親郡神社は南北朝時代に書かれた神道集という本にある和利大明神のあった所で、元禄6年の五反田村の絵図に「七社大明神」と記されている。由緒ある神社である。

蟻川波右衛門

幼名を神保吉右衛門といい、倉渕村の権田伝左衛門に師事し、享保20年に権田の系譜を譲られた。元文5年日本鍛冶宗匠から蟻川波右衛門藤原政吉の名をもらい、名工となった。二代目が若狭守の称号をもらい、皇居の出入りを許されたほどである。鍛冶職で称号のあるのは、関東で若狭守ただ一人といわれる。

浅間石

天明3年、浅間山の噴火の際、火山噴出物が浅間山の北斜面に押し出し、その一部が吾妻川に流入し、泥流となって流れ下った。この石は、浅間火山噴出物の本質岩塊とされる「輝石安山岩」である。この浅間石は、当時発生した「押し出し」とされる現象と、それに起因する洪水のすさまじさを今も伝えている。

栃窪風穴

風穴は、岩のすき間から風の吹き出しているものである。真夏でも冷風が吹き出すので、それを利用して蚕の種を貯蔵した。明治43年、赤坂の綿貫形次郎と東村の奥木仙五郎が営林署から借地して、地下3階の貯蔵庫をつくり創業した。近村の養蚕農家から関東一円の蚕種業者までが、ここを利用した。冷蔵設備の普及によって廃止された。

な〜の

宗本寺

浄土宗揚水山宗本寺は本尊阿弥陀如来、芝増上寺末寺、康応元年(1398)神誉誓故によって創建された。境内にある宝篋印塔は、康永3年(1344)の銘文のある塔(高さ201cm)と同4年銘の二基は県指定重要文化財である。寺宝の「二十五菩薩来迎図」は、恵心僧都源信筆と伝えられており、南北朝期と推定され県指定重要文化財となっている。

西向き観音

「吾妻三十三番観世音札所」は、中世に成立し、戦国時代の兵乱で廃絶してしまったが、元禄3年(1690)に信心の厚い人々の努力で再興された。この観世堂はその昔、榛名山大坊満行院より分かれたので、榛名山大坊ともいい、吾妻郡最古の札止め観音霊場である。巡礼歌「この世にてぼだいの種を植置くは、御法の花も開く後の世」

四万温泉

「四万の病気を治す」といわれる四万温泉は、四万川の上流に広がる北関東屈指の名温泉郷である。昔ながらのたたずまいを残し、懐かしい湯の町情緒を感じさせてくれる。湯量は豊富で、泉質は弱食塩泉で40~80度と高温なのが特徴である。神経痛・リウマチ・皮膚病のほか、特に胃腸病によく効くといわれている。

鳥追太鼓

毎年1月14日は「鳥追い祭り」が行われ、害鳥を追い出して五穀豊穣を願う。直径1m以上もある大太鼓を先頭に、大小十数個の太鼓が町中を練り歩き、威勢の良いかけ声と共に太鼓が打ち鳴らされる。ミカンや景品などが投げられ、見物に集まった群衆はこれを拾おうと大変に混雑する。太鼓は江戸時代の制作で、県の重要民俗文化財に指定されている。

嵩山

中之条町市街地の北にそびえる標高789mの山で、3つの頂からなり、西から小天狗・中天狗・大天狗という。死んだ人の霊が山頂に集まるという山岳信仰の山だった。戦国時代に嵩山城が築かれ、16才の斎藤城虎丸が城主の時、真田軍と戦って落城した。その時戦死した人の供養のため、元禄15年から、阪東・西国・秩父の観音像が立てられている。

は〜ほ

句碑公園

町内折田を中心にした俳人200人ほどの句碑120基あまりが離山の句碑公園に林立している。木立に囲まれた地味なたたずまいの中に、「露涼し形あるもの皆生ける 鬼城」や「あらあらと芽立ちて朴の木が見ゆる 三木」、「父の如また祖父の如大夏木 風生」などの句碑が立ち並んでいる。

善福寺

「善光寺如来金銅三尊像」は、善光寺仏四八躰の第四十五番、鎌倉時代後期の金銅製鋳抜きで高さ46.5cmである。この像は、浄土宗龍水山善福寺の秘仏で、12年に一度、午年に開帳される。康永元年(1342)浄土宗西山派の高僧道覚によって寺が創建され、善光寺三尊も開山上人によって伝えられたという。県指定重要文化財。

サイカチ

昭和30年、県の天然記念物に指定された。目通り5.4m、樹高14m、枝張り27.3mあり、地上3mで二又に分かれ、幹は空洞になっている。樹齢推定500年以上といわれ、サイカチとしては全国第一位の巨木である。その果実は豆果で、昔は洗濯用・薬用に使用した。国道353号沿いにあり、現在も樹勢は旺盛で、通る人の注目を集めている。

神楽

中之条町には、西中之条・中之条町・伊勢町・折田・山田・下沢渡・四万・岩本・五反田・蟻川・高津の11の神楽、西中之条・折田・山田・下沢渡・大岩・反下・駒岩・岩本・大道・蟻川・大塚・平の12の獅子舞の計23があり、県下の町村では数多い地域である。これは、五穀豊穣、氏子の平安と繁栄、悪魔退散、交通安全などを祈願して奉納される。

暮坂峠

歌人若山牧水(1885~1928)は、学生時代からの親友佐藤緑葉(東村)田中辰雄(中之条町)などの縁故で吾妻郡を訪れた。大正7年「吾妻川」、大正9年「渓ばたの温泉」に中之条の事を記している。大正11年「みなかみ紀行」を発表。暮坂峠で「枯野の旅」を創作して、50年後の昭和32年牧水像の詩碑が完成し、毎年牧水祭が開催されている。

ま〜も

町田延陵

町田延陵(1742~1806)は、山田字清水の出身で、江戸時代の大学者・書道の大家である。中国の古典を学び、それを版木に彫って手本を作り、頒布して書道の振興をはかった。学問にも優れ、中国の歴史書・学者の本・儒学の本など一千冊も読んだ。また信仰心に厚く、般若経六百巻を書き写すなどたくさんの物を残した。

緑と湯の郷

中之条町は、標高378mの中之条盆地を中心として開けた、人口およそ一万九千人の町である。古くから交通・文化の主要地として栄え、数多くの重要文化財や天然記念物が点在する歴史と緑の郷である。特に風光明媚を誇る北西部は、上信越高原国立公園に指定され、群馬県を代表する四万・沢渡温泉郷がある。

桃瀬の水牢

国道145号線に平行する桃瀬川の右岸山寄りに「桃瀬の水牢」という湧き水を溜めた池がある。水牢は年貢を滞納した農民を入れたと伝えられ、三間四方の大きさで、底に船底石がある。町内の西中之条・茂本・蟻川・折田など東吾妻地方に水牢跡があるが、他の地区には無く、沼田藩真田氏の時代のものか、それ以前のものかは諸説があり不明である。

ぼくぼく弁天

大塚の鳴沢に湧き出している水は中之条町の上水道となり、大きな恵を与えている。水の流れる音で「鳴沢」と名付けたのであろう。大正8年(1919)には、この水で壁谷に発電所をつくった。昔から農業・生活用水に利用してきた人達は、ここに元禄6年(1693)に弁天様の石宮を建てた。水の湧き出す様子を見て「ぼくぼく弁天」と名付けた。

四万の渓谷

四万の渓谷は変化に富んだ複雑な地形を形作っているため、名勝地や滝がいたるところに点在する。特に、四万川の流れをせき止めた周囲5kmほどの人造湖「四万湖」は、緑色を帯びた神秘的な湖水である。1日に何度か時刻によって色を変え、眺めているだけで時のたつのを忘れてしまうほどである。新緑や紅葉の季節は特に美しい。

や〜よ

苗木市

安市は、江戸時代の「六斉の市」の名残りで、毎年4月16日に開かれる。昔は、この市の日に、商店が値下げをして安く販売したので、この名が付いたといわれる。中之条盆地にもようやく春が訪れ、桜も満開ともなれば、花見がてらに近郷から人々が繰り出し、苗木・種子・農具・草花などを買い求めたので、別名を「苗木市」ともいわれている。

ふれあいの森

「中之条森林公園ふれあいの森」は、岩本地区の標高750mの高台にある。展望が素晴らしく、上信越の山並みや榛名山、妙義山、浅間山などが見え、夏でもさわやかな風が吹く憩いの場所である。バンガローやキャンプ場を完備し、アスレチックやテニス、登山やバードウォッチングなど自然とのふれあいを満喫できる町営施設である。

洋風の学校

中之条町歴史民族資料館は、旧吾妻第三小学校として明治18年10月4日に竣工した明治初期の洋風学校建築である。木造寄棟造り二階建、延床面積632.8㎡、設計者不詳、施工桶田栄太郎。大正7年まで学校、その後役場庁舎として昭和53年まで使用。昭和57年11月7日、資料館として開館する。昭和53年10月、県の重要文化財に指定された。

ら〜ろ・わ

蘭学を

高野長英は、長崎でシーボルトに医学を学び、天保元年(1830)江戸に私塾「大観堂」を開いた。この頃、福田宗禎・柳田楨蔵・木暮俊庵・望月俊斉など長英の教えを受けて蘭方医学を学ぶ者が続出した。天保2年、横尾の高橋景作は大観堂に入塾し、後に塾頭となった。吾妻の蘭学者達は、長英が「蛮社の獄」で投獄され、脱獄し潜行した後も支援した。

林昌寺

宝満山白雲院林昌寺は、本尊釈迦如来、文安年間(1444~9)長こうが創建。戦国時代に箕輪長純寺四世長こうを迎え、矢沢より綱(真田幸隆弟)が開基となって再興し曹洞宗の寺となる。本堂・山門には六連銭の家紋(開基矢沢氏の紋・真田氏と同じ)がある。寺宝の文永8年弥陀一尊画像板碑(町重文)をはじめ、シダレ桜(町天然)などの他、石造物も多い。

瑠璃光の

「日向見薬師堂」は、四万日向見の温泉明神の本地仏薬師瑠璃光如来を祀る堂である。四万三間・単層支柱造茅葺、軒は二重繁垂木に抖拱・台輪の粽柱をたて、周囲を板壁で囲む。内部は内外陣に分かれ外陣の板かえる股の桐の彫刻に桃山様式を伝え、慶長3年(1598)の棟札がある。堂内の厨子・仏像・絵馬なども含めて、国指定重要文化財である。

和利宮

昔、嵩山は「わりのたけ」といい、死んだ人の霊が宿る山として信仰された。その麓に祀られたのが「和利宮」である。中世にこの地を領有していた武将塩谷氏一族を守護する神として、伊勢町の御手洗山に移し祀った。現在の横尾に移転したのは、弘治2年(1556)の頃ともいわれている。かつては「吾妻大社」ともいい、現在社名は「吾妻神社」である。

白久保お茶講

大字五反田白久保に伝わる国指定重要無形民俗文化財である。南北朝・室町両時代の闘茶の形を残している。チンピ、煎茶、甘茶をそれぞれ煎って抹茶をつくり、これを基準によって混ぜ合わせ、一の茶・二の茶・三の茶・客の茶の四種をつくり、試し飲みした後、その味を飲み当てる。天神様の宵祭、2月24日に行われるもので、「天神講」ともいう。

剣持予山

剣持予山は、要七・章行・成紀と称す。沢渡温泉の農家に生まれ、子供の時から学問好きで、板鼻の小野栄重について和算を学び関流七伝の号を許された。50歳で、家を弟に譲り、江戸に出て内田五観に学んだ。学問は大いに進み、和算教授のために遊歴し、弟子は千余人を数えたという。明治4年千葉県鏑木村にて死去した。著作は数多く残されている。

  • この記事を書いた人

ブゲン

食べることと群馬の郷土かるたが好きなブロガー。好きな食べ物は「餃子」好きな上毛かるたの札は「よ」 かるたが繋いだご縁で光GENJIの佐藤寛之氏とラジオ共演を果たし、ライブイベントでは司会や補助を頼まれたことも…。自分には無縁と思われた世界を知り、戸惑いもあったがやれば出来ると自信に繋がる。つまり何が言いたいかというと、かるたって人と人を繋げる不思議な魅力がある♪

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