川場かるた

川場かるた全札まとめ(群馬の郷土かるた)

川場かるた

どうもブゲンです。この記事では群馬県利根郡川場村の郷土かるた「川場かるた」を紹介していきます。

かるた散策MAPがあり、ウォーキングコースなども用意されています。

川場村には田園プラザなど魅力的な観光スポットが多数存在しますが、かるたが観光に一役買っているのも確かです。

自然豊かな川場村を散策しながら、かるたに読まれている歴史を学んでみるのも面白いかもですよ♪

この記事で知れること

・川場かるたについて

・絵札、読み札の解説

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川場かるたについて

平成21年12月、村政120周年記念に川場かるたは発行されました。

文化遺産等が数多く存在する川場村を後世に引き継ぐため、「ふるさと学習」の一環としてこのかるたは作られました。

川場村の歴史や自然、地域文化や人物、地域の行事等について知ることができるかるたで、郷土に一層の理解と愛情を深めてもらいたいという願いが込められています。

制作元は川場村教育委員会。

絵札は角田 貫氏

読み札は高山 廣昭氏により書かれています。

印刷は朝日印刷工業株式会社となっています。

絵札、読み札の解説

あ〜お

仰ぐ武尊の峯七つ

武尊山は主峰の沖武尊(2,158m)、中ノ岳(2,144m)、前武尊(2,040m)など七つの峰が連なっている休火山です。登山者の多いわりには荒廃も少なく、自然がそのまま残されているとても貴重な山で「日本百名山」にも選ばれている。

岩に彫られし観世音

岩肌に彫られた石仏を磨崖仏と言いますが、打越の岩観音は三十三体もありこのあたりを代表する磨崖仏です。宝永8年(1711)に南北朝の戦乱で戦死した将兵の供養にと刻まれました。当時は彩色されていたと思われ、よく見ると今も赤や緑の色が残っています。岩が風化してだいぶいたんでいますが、60cmほどの可愛い立像、座像の仏様たちです。

生まれ変わって資料館

川場村歴史民族資料館は昭和60年(1985)に、旧川場小学校校舎(明治43年建設)の一部を移築したものです。多くの人々が学んだ思い出のいっぱいつまった学校を残しておこうと資料館にしました。平成10年(1998)に文部省の登録有形文化財に指定されています。

枝分け巨き姫小松

吉祥寺の山門近くに立つ姫小松は、目通り3.8m、枝張り約19m、樹高約22m、推定樹齢300年余りの県内まれに見る巨木です。地上3mくらいから幹が枝のように分かれ、どれが主幹だか分からないほどです。昭和32年(1957)県の天然記念物に指定されました。

太田川古き川場の語り種

中野の奥、世田谷ビレジの近くにあった太田川村は貞享3年(1686)に中野村から分かれ、国の領地として独立した村になりました。当時は人口も七十人程ありましたが、享和3年(1803)には四十四人、明治9年(1876)には十三人と減りつづけ、ふたたび中野に合併されました。

か〜こ

川場ダム四季を浮かべて澄みわたる

川場ダムは、薄根川の川場谷沢に土砂災害防止対策として昭和63年(1988)に完成した砂防ダムです。堤の長さは116.5m、高さは25mで治水効果に合わせ、観光レクリェーション基地の一つとしての活用など多方面にわたり利用されています。湖面には四季おりおりの景色が映りそれは見事です。

階数える虚空蔵堂

立岩にある虚空蔵堂は、天長4年(827)の草創といわれ、その石段は「天和記」によると寛政9年(1797)から文政2年(1819)まで22年間もかけて作られたということです。石段の数は450段前後ですが、下から数える第一段目をどこからとするかで変わります。一度数えてみてください。

草餅色の櫻石

桜石(桜川石)は、桜川の上流に産出される石で古くから知られていました。高山彦九郎の日記にも「さくら石」のことが記されています。比較的柔らかく草餅のような黄緑色をした石です。印、花瓶、硯などに加工され使われていたことがわかっています。明田岷齊の梅の絵の碑も、桜石で作られています。

渓流に銀鱗おどる川三すじ

川場村は昔、「川端」や「川波」とも書いて「かわば」と読んでいたこともありました。その名前のように川が多い村で、なかでも薄根川、桜川、溝又川は村を北から南へ貫くように流れ、その清流にはイワナ、ヤマメ、ウグイ、マス、アユなどの魚がたくさん生息しています。

こんもりと鬼の伝説愛宕山

田園の中にぽっかりと浮かぶ愛宕山は、むかし武尊山の方から大きな鬼が歩いて来て、持っている金棒でどしんと地面を突いたとき、金棒の泥がおちて愛宕山ができ、履いていた下駄で石をポンと蹴ったら下駄の土が落ちて、大塚山ができたという言い伝えがあります。愛宕山には神が祀られ人々から信仰される山となり、大塚山は年を経て今はゲートボール場として親しまれています。

さ〜そ

山門の勅額永久に青龍山

吉祥寺の山門に掲げてある額は、吉祥寺が後光厳天皇の勅願所となった正平7年(1352)、創建した円月禅師が天皇からいただいたもので表に「青龍山」とあり裏には「後光厳院・文和元年(1352)壬辰喜平上幹」とあり、後光厳天皇の勅額であることが記されてあります。後光厳天皇は、南北朝時代の北朝方の天皇です。

自然の要塞天神城

天神城は、天神の巾バス停から南に下った薄根川と溝又川の合流地点の水で削られた断崖の上に、弘治3年(1557)沼田城主の沼田萬鬼斎が築城したものですが、天守閣もない平家造りの城だったようです。三方を川で囲まれた堅固な城も永禄12年(1569)落城しました。今は「天神城址の碑」のみが昔を物語っています。

杉うっそうと学校林

学校林は、谷地の関準蔵という人が校舎の建築など、村の将来を考えて明治43年(1910)に、谷地共有林を譲り受けて造りました。いままでに何回か学校の建て替えに伐採されましたが、村の人が管理をし、また小学校五年生以上の児童生徒が毎年防火線の手入れをして、大切に育てているので今でも立派な林になっています。

世田谷と友好の森の呼ぶ未来

世田谷区の区民健康村づくりの基調は、自治体同士の縁組であり区民と村民との心の交流を図りながら、区や村の活性化をも考えたもので、昭和56年(1981)に相互協力協定が調印されました。その後十周年を記念して「友好の森事業協定」を結び、「森の村」「森の学校」などでの自然体験を通して環境保全のための事業を進めています。

象の歯太古の村語る

古代象(ナウマン象)の臼歯が、昭和29年(1954)富士山地内桜川の堤防工事の現場から発掘されました。ナウマン象は、日本がまだ大陸と繋がっていた頃渡ってきたと言われていますが、少なくとも十五万年以上前この辺りを大きな象がのっしのっしと歩いていた姿を想像するだけで楽しくなります。レプリカが資料館に展示してあります。

た〜と

叩く鼓に踊る獅子

萩室の獅子舞は、五穀の豊穣と、悪い病気が流行らないように祈る神事で、諏訪神社に奉納されます。雌獅子一、雄獅子一、神の獅子が共に獅子の頭をつけ、牡丹の模様の馬乗り袴をはき腹部につけた鼓を打ちながら舞うものです。しばらく途絶えていましたが、地元の人達の努力によってまた復活し、喜ばれています。

地味豊か川場は名だたる米どころ

水量が多く地味も豊かな川場村は、昔からおいしい米が沢山できる所でした。その地元産米の生産・販売・流通それに栽培技術の向上や経営の安定を考え、「売れる米づくり」に着手しました。米の歴史を語る献穀祭の復活や、ブランド化を図る「雪ほたか」の生産などで徐々に成果をあげています。

罪を背負って名主黙雷

湯原の名主であった今井黙雷(本名五兵衛)は、天保の飢饉(1832~1836)のとき、禁制だった郷蔵を開いて米を村人に分け与えて助け、自分はその罪をきてお仕置きを受ける覚悟でいましたが、助けられた村人たちのすすめで、名を杢平と変え今の吾妻郡のほうへ身を隠していたそうです。

田園プラザ並ぶ野菜はみずみずしい

平成8年(1996)道の駅「川場田園プラザ」として登録されて以来いつも大勢の人々で賑わっています。パンやハム、ヨーグルト、それにビールなどに人気がありますが、ファーマーズマーケットに並ぶ採れたての新鮮な野菜は、生産者の顔が見えるようだと大好評です。そのお客さんの声は、広くて、きれいで、おいしいものが沢山ということでした。

土塁は残る大友館

大友館は桂昌寺の東に隣接してあり、四方を土塁が巡っていましたが今ではその一部が残っているのみです。昭和58年(1983)一部発掘調査をしましたが、館内部からは遺構、遺物とも発見できませんでした。ただ、土塁の外側に接して水をたたえていた「堀」があったことが判明しました。鎌倉時代では平城の館でも敵への備えは堅くしたようです。

な〜の

七谷越え望郷ラインでひとまたぎ

利根沼田の農業生産品が、首都圏にいち早く届けられることや、都市住民との交流が盛んになるように、昭和村から旧利根村、旧白沢村、川場村、沼田市(旧池田)を経て旧月夜野町まで約32.1kmの農業用道路が開設されました。この道路の愛称が「利根沼田望郷ライン」です。この道の開通で迦葉山にも短時間で行けるようになりました。

にぎやかな川場祭りは夏の華

川場まつりは村を元気に明るくしようと、昭和56年(1981)から開催されています。毎年7月の第四土曜、日曜に中央公園を中心にしてターゲットバードゴルフ、ゲートボール大会をはじめ色々なイベントを開きます。とくに神輿の行進と、花火の打ち上げが花形で人気を集めています。村外からの見物人も多く、終日賑わう夏祭りです。

沼田平までも潤す川場用水

元和元年(1615)の頃になると、沼田城下も規模が大きくなり白沢用水のみでは水が不足になったので、城主の真田信幸は薄根川の水を引くことにしました。谷地の黒岩から中野、萩室、下古語父、上古語父、原田、横塚を経て沼田に至る約16kmもの水路です。これが川場用水で今でもほぼ昔の姿のまま流れ活用されています。

猫柳もえて明るい薄根川

川場村のほぼ中央を北から南へ流れ、村内のいくつかの支流を合わせて沼田地内で利根川と合流する川が薄根川です。四季を通してきれいな水が流れていますが、雪解けで水かさの増した川辺に、いち早く春の訪れを知らせるねこやなぎが銀色の蕾をみせるころは、雪に埋もれた冬から解放された喜びで明るさいっぱいになります。

野中に光る兜滝

生品、越沢の田園地帯の傍らを流れる田沢川に、高さ、幅とも10mほどの小さな滝がありますが、これが「兜滝」です。石英安山岩質の岩の上を扇型に流れ滝の中程にある窪みで、水が跳ねあがるようすが兜に似ているところから「兜滝」と呼ばれるようになったと言われています。川の中洲まで行けば真正面から滝を見ることもできます。

は〜ほ

薄命の歌人江口きち

江口きちは、昭和13年(1938)36歳の若さで自ら命を絶ちました。薄命の歌人、女啄木とよばれていますが、その生涯は波乱に満ちたものでした。「きち」の作った短歌は唯一の歌集である「武尊の麓」によって全国に知られ、多くの人々に愛読されています。資料館に、遺品や資料が展示されています。

ひびく汽笛が村おこす

北海道の広野を疾走していたD51機関車が、昭和52年(1977)川場村に来てホテルSLに変身してから、ここを観光の基点とし周辺にいろいろな施設が整備されました。機関車は再生整備されきれいになって、汽笛を鳴らしながら短い線路ですが走りつづけています。

文化を今に芭蕉句碑

俳聖と言われる芭蕉の句碑は村内に三基あります。桂昌寺境内の「山里は萬歳おそし梅の花」の句と生品井土岐の「咲き乱す桃の中より初桜」の句はどちらも文久元年(1861)に地元の俳人が中心となって建てられたものですが、当時の文化の隆盛がしのばれます。もうひとつ桂昌寺境内の「古池や蛙とびこむ水の音」の句は平成2年当時の住職によって建てられました。

辺境に潜み東庵宣教す

元和から寛永にかけて、今から約350年ほど前のことですが、門前に「東庵」と言うキリスト教の伝道師が来て12年ほど、村内を始め近隣の村々に布教していました。当時はキリスト教禁止令が出され取締り厳しい時代だったので、東庵は人目をはばかりながら布教しておりましたが、寛永7年(1630)にどこかへ行ったまま帰ってきませんでした。

豊年を祝いりんごも赤々と

昭和32年(1957)「川場村りんご研究会」が創立されて以来、りんごの生産は増加しつづけています。その後ブルーベリー、葡萄などの果樹園も増え、季節になるとりんご狩りや、ブルーベリー摘みに多くの観光客が訪れ、たいへん賑わって収益も上がり、村は明るく、活気にあふれています。

ま〜も

鱒で名高い川場名水

武尊山の伏流水は、村内いたる所にきれいな湧水となって流れでています。その一つで水量も多い天神滝ノ沢の湧水は、昭和8年(1933)に群馬県水産試験場の鱒池の水源として活用され、以来鱒の孵化や稚魚の育成に役立っており、海無し県の水産業の一つとして、今も、立派にその任を果たし鱒の新種「銀ひかり」が県の特産品として登録されました。

民話で知られる千貫峠

木賊から片品村の花咲に抜ける会津裏街道の峠の一つが千貫峠です。昔、上野国白井の城主、白井伊玄入道が戦いに負けて落ち延びるときこの峠で一休みし、目の前の岩に生えている松を見て「たいした松じゃ、屋敷の庭にあれば千貫文の値うちがある」とほめたことから千貫松といわれ、その峠を千貫峠と言うようになりました。

昔から脚気川場はお湯どころ

川場温泉は昔から世に知られていて、沼田記には「川場温泉は、脚気、うちみなどによく効くが、ぬるい湯だ。聞くところによると弘法大師が、村民を助けるため田の中に鉢の子(鉄鉢)を埋めたところ、そこから湯がわきだした。」と書かれています。また、湯原組の古い書き付けには「天長4年(827)に開く」とも書かれています。

名工に座敷箒は引き継がれ

大正2年(1913)に、「有限責任生品信用購買販売組合」という組合が設立されていますが、産業組合法による川場村で最初の組織で、生品箒の生産と販売を中心としたものでした。昔から伝えられた技術をいまも大切に受け継ぎ、村の特産品として生産されています。一時は掃除機におされて衰退しましたが、その良さがまた見直されてきています。

紅葉に染まる赤倉峡

主要地方道、平川横塚線を北上し木賊の手前を右折すると、赤倉の渓谷です。そそり立つ絶壁は空を狭め河床を洗う清流は、ときに滝となりまた淵となって見る者を飽きさせることはありません。とくに、川面を緑に染める新緑や、岩肌を真っ赤に彩る紅葉のころは山菜や、うまくすれば松茸にも出会えるすばらしいハイキングコースでもあります。

や〜よ

厄除け名高き別所観音

別所の厄除観音は、山裾の小高いところに南向きに建っています。古くは大友氏の祈願所と言われ、大友館の真北にあたっています。信州別所の北向き観音を勧請したと思われますが、今でも1月と4月の18日には参拝者で賑わいます。現在は、持ち寺の川場湯原の正楽寺が維持管理しています。

雪山のはてに富士浮くスキー場

首都圏から2時間で着くスキー場を、キャッチフレーズに平成元年(1989)に開業した川場スキー場は、沼田インターからも近く、雪質も、環境も良いことから沢山のスキーヤー、スノーボーダーが押しかけ、シーズン中賑わっています。そんな賑やかなゲレンデから、晴れた日には遠く山並みの向こうに、日本の名峰富士山が勇姿を見せてくれます。

養蚕をいまに伝える春駒祭

昔白沢村から、お正月に巡って来た門付の芸が、明治の頃から村の若者に受け継がれ、時期も2月の初午に行われるようになりました。この日は養蚕の神様金甲稲荷の祭日で農家の多かった門前では、養蚕の豊穣を願って家々を巡回するようになりました。昭和40年(1965)ごろ一時とぎれましたが、保存会がつくられ復活し今に伝えています。

ら〜ろ・わ

らんらんと下界を睨む武尊像

主峰沖武尊に、日本武尊を祀る石祠がありますが、その傍らに行者深沢心明が建立したと伝えられる、日本武尊像が立っています。ほぼ等身大で長い髪を肩から胸にたらし、口を真一文字結んだ端整な容貌ですが、その金色に輝く目は川場谷を見下ろし、「悪いことは一切許さないぞ」とでも言うように睨みを効かしています。

龍踊る狩野探雲の天上絵

川場湯原の武尊神社には宝暦5年(1755)に建立されたとの記録が残っていますが、前身の薬師堂は40年ほど前に建てられていました。このお宮の天井いっぱいに墨で龍の絵が描かれていて、隅に「行年八十歳法眼探雲」の落款が見えるので「狩野探雲」の描いたものとわかります。神社の天井の絵ですので画面はだいぶいたんでいます。

るるとして合併よそに伸びる村

明治22年(1889)地方制度が施行され第一回の町村合併が行われてから、昭和28年(1953)に、また平成15年(2003)にそれぞれ町村合併が推進されましたが、川場村は、いつも自主自立の方策を選び現在に至っています。これも良き指導者と村人の理解により自治体形成以来、明るく豊かな村作りを進めてきたからだと言えます。

歴史の薫る延命院

延命院の沿革によれば、前身の西光寺は良忍上人の開山、正和3年(1314)に弁償と言う僧が再興したと記されています。良忍上人は平安町時代の僧ですから、遅くとも平安朝末期には西光寺は建立されていたことになります。代々の住職の墓地に「正中2年(1325)2月、弁清」と読める無縫塔が残っています。

老僧開く桂昌寺

臨済宗建長寺派萬松山桂昌寺は、吉祥寺三代住職の萬像機一和尚の開山ですが、昔火災にあって古い記録は残っていません。機一和尚は応永3年(1396)に亡くなっていますからそれ以前に建立されたことは確かです。また大友氏時夫妻の位牌と墓といわれる一対の石塔が寺の東側に残っていて、大友氏との関わりの深さを物語っています。

草鞋見て鬼も悪魔もよりつかず

中野の入り口経塚に大きな「藁草履」が掲げてありますが、昔は大きな「草鞋」でした。「ここには、こんなに大きな草鞋を履く大男がいるぞ」と、中野に入ってくる人々を脅かすためのものですが、本当は、悪いことをする人や、はやり病などが村に入ってこないように願って掲げたものです。昔からの風習を残していることは、とても貴重なことです。

  • この記事を書いた人

ブゲン

食べることと群馬の郷土かるたが好きなブロガー。好きな食べ物は「餃子」好きな上毛かるたの札は「よ」 かるたが繋いだご縁で光GENJIの佐藤寛之氏とラジオ共演を果たし、ライブイベントでは司会や補助を頼まれたことも…。自分には無縁と思われた世界を知り、戸惑いもあったがやれば出来ると自信に繋がる。つまり何が言いたいかというと、かるたって人と人を繋げる不思議な魅力がある♪

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