渋川かるた

渋川郷土かるた「新設合併前」全札まとめ(群馬の郷土かるた)

渋川郷土かるた

どうもブゲンです。この記事では群馬県渋川市の郷土かるた「渋川郷土かるた」を紹介していきます。

今回、かるたを提供してくださった方➡︎ @notata_kite

ありがとうございます。

こちらは平成18年の新設合併より以前のかるたになります。

現在の渋川市(伊香保町・小野上村・子持村・勢多郡赤城村・北橘村が新設合併)のかるたの記事は↓になります

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この記事で知れること

・渋川郷土かるたについて

・絵札、読み札の解説

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渋川郷土かるたについて

昭和60年に発行されたかるたになります。

これと同じ時期に発行された「日本のまんなか 渋川かるた」というかるたも存在するようです。

かるたを提供していただける方がいましたら問い合わせからメッセージお願い致します。

ここで紹介する「渋川郷土かるた」は、渋川市が合併前(伊香保町・小野上村・子持村・勢多郡赤城村・北橘村を除く)に作られたものになるので、地域が限定的になっています。

江戸時代の風俗を色濃く継承した明治初頭の渋川の地において、この土地の人々によって伝承され、消えかけていたものを八方手をつくして収集しました。

と、箱の裏の解説にあるように制作には非常に苦労した背景がうかがえます。

このかるたが元になって新たに「アジサイ印」、「マツ印」と名付けた二編のかるたも存在したようですが、これらについては情報が不足しています。

絵札、読み札の解説

あ〜お

赤城の遠景渋川第一

関東平野の北端にそびえているカルデラ式火山、標高1,828m。外輪山の荒山、鍋割山、錫ヶ岳、黒檜岳、駒ヶ岳、小地蔵岳を総称して赤城山という。火口湖の大沼、覚満渕、小沼がある。渋川方面からの景観は雄大な裾野と鍋割山の容姿が美しい。昔、吉田芝渓は「浴泉奇縁」の中で、神への供物の形になぞらえ、画家、草丘は画讃に「榛名の魅偉、赤城の雄」を賞讃している。

いも種サクラナンテン古木金蔵寺

シダレサクラとナンテンは、金井の金蔵寺境内にある。文政年間(1818~)、同寺四十三世の植樹と伝えられる。このサクラの開花の時期に、サトイモを植えると収穫がよいとの由来による。昭和27年。県指定天然記念物。ナンテンは、昭和47年市指定。

歌え陽気に渋川音頭

渋川市は、一町三か村の合併により、昭和29年に市政が施行された。渋川小唄は歌詞を公募し、温度は西沢爽に作詩を依頼、島倉千代子を招いて発表した。渋川小唄も同時発表。

越後路へむすぶ南牧杢の関

三国街道金井宿(渋川市金井)を過ぎ、南牧にさしかかる。吾妻川の川関、対岸の北牧宿に通じ、猿ヶ京の関所を経て越後に向った。設置は、元和6年から、明治初年(1620~)安中藩、後に高崎藩が管理した。昭和26年、県指定史跡。

小栗上野家計簿残す

小栗上野介忠順、文政10年(1827~)幕府の外国、勘定、陸海軍各奉行などの要職をつとめ一人その重責をになった。職を辞して後、旧領地、上野国権田村に住んだが、官軍の嫌疑を受け、島川で斬首された。忠順の日記が、往時この整理にあたった渋川村出身の役人の手で持参され、秘蔵されている。昭和31年、県指定重要文化財。

か〜こ

軽石層のうえに虚空蔵塚古墳

榛名山系、二ツ岳爆裂による軽石降下の後に構築された横穴式の円墳、八世紀初期のものとされている。中世紀、ここに如来寺あり、古墳石室内部に、虚空蔵が祀られていたのでその名がつけられた。昭和27年県指定史跡。

義範お尚の子育地蔵

真光寺三十七世義範和尚は、江戸時代に近辺の村落で、公然と行われていた赤子圧殺の悪習を強く戒めて村人を教化した。師の没後、村人の手で明和3年(1766)に、赤児を抱く僧形の地蔵尊が下郷の僧庵跡地に建立された。昭和48年1月市指定史跡。

桑畑伊勢へ百十里の道しるべ

昔の三国街道、八木原宿のはずれ、金古宿に向う一面桑畑の中に、三角柱自然石で安山岩質の道しるべが立っている。表に右、高崎、左、江戸と大きくその下に善光寺へ33里、伊勢大神宮へ110里、讃岐金比羅へ175里半等と深く刻されており、天明3年(1783)書とある。昭和47年10月20日市指定史跡。

剣ずり石も渋川七名石

渋川には、大石、石原などの地名があるように、天然の名石が散在(多くは角閃石安山岩)し、昔から七名石が知られ、それぞれの自然の見様でその名がある。(一説に八名石)雄石(大石)、雌石、巽石(たつみいし)、剣磨石、巾着石、蚕種石(こだねいし)、寸臼石(すばこいし)、夜泣き石。他に市内に夫婦石、足あと石や有馬五石などがある。

こまいぬまつった白山神社

真光寺蔵となっているが、寺伝では、もと同寺の鎮守で北東の隅にあった白山神社の拝殿に奉納されていたもの。この跡地に寛文12年(1672)建立の石祠がある。こまいぬは、ア、ウンの形をした2体で、ア形は頭頂から爪先まで54cm、寄せ木造り表面に布と漆塗り仕上げ、室町期の作と推定されている。昭和27年県指定重要文化財。

さ〜そ

再会を約して記念樹憩の森

1月15日は、国で定めた「成人の日」であるが、渋川市では成人を記念して市有林を開放、憩の森(渋川市大野)に成人が集って植樹を行っている。市総合公園の一部。

渋川伊香保インター出場の関所

関越高速自動車道、高崎-新潟間のインターが国道17号線と交差、渋川市中村地区に建設された。以前から渋川は、吾妻方面の草津、万座、四万、沢渡や利根地方の水上、猿ヶ京、伊香保方面の玄関口であり交通の要さいとして重要な位置を占めている。

涼しさをうたう俳聖芭蕉句碑

市内金井にある「牧の坂の夕すずみ」という言葉は、昔から古老の口にのぼっていた。市内南牧の坂の途中に芭蕉の句碑が建立されており、「このあたり目に見ゆるもの皆涼し」とある。

千音寺の子育地蔵

市内上郷の西方にあった千音寺は、いま廃寺となっている。跡地に応永年紀号(1394~)の宝きょ印塔の一部もあり近くに英亭6年(1434)の五輪塔もある。同地に子育地蔵尊が祀られてあり、近郷近在の参拝者が多く夜店も出てにぎわった。

そろいの音頭で八幡のぼり

八幡宮は渋川市一番地に所在、祇園祭りに繰り出された山車が、鎮守八幡宮にも奉納に登った。調子は笛、大小の太鼓、鉦で「三てこ」「かごまる」「八幡のぼり」「よかぐら」など。

た〜と

タタラの跡は下金井

9世紀末と推定される、古代製鉄遺構。発掘寺に製鉄炉跡と炭がまも発見された。以前からスラップが地表面に散在していた。やや組織的で規模の大きい職業集団が製鉄にあたったとも考えられる。全体の発掘には至っていない。また、市内行幸田にも小鍛治跡(想定)が発見されている。県指定史跡。

長英かくまう木暮足翁

高野長英(文化元年、1804~)は、シーボルトに学んだ蘭方医として著名だが、蛮社の獄の後、弘化2年(1845)長英は脱獄して中山道脇往還の渋川、木暮足翁に身を寄せ、数十日代診、その後、福田宗禎、高橋景作、根岸権之助、湯本俊斉の家など、吾妻郡下を点々と隠士として暮らしたという。やはりこの時期、渋川の木暮家にも立ち寄ったと伝えられる。

つくるこけしは日本一

東北地方の伝統こけしとは別に、創作による近代こけしが、戦後盛んとなり、群馬県が主要生産地の一つとなった。なかでも、創作芸術性の高い近代こけしが、渋川でつくられ、全国に向けて頒布されるに至っている。

寺小屋で読み書きそろばん林徳寺

北群馬郡子持村にある曹洞宗の古刹、最大山雙林寺の末寺で、永福山林徳寺。旧本堂は渋川市新町にあった教場と同様、寺子屋教場として近郷の子弟の教育の場であり、読み、書き、そろばんを教えた。「渋川往来」などの版木本も残っている。

酉の市祇園をまつる八坂様

市内並木町、天台宗真光寺境内の西側に社屋がある。神楽舞などの奉納もあった。暮の飾りものや、雑貨を売る夜店が立ち、近郷の参拝者の出足が多く、夜店も遅くまで賑わう。

な〜の

南北朝面影残す石造笠卒塔婆

市内石原にあって、石造物の著書にはほとんど掲載されるほど有名。卒塔婆に笠をのせた形状で、四面に梵字、正面には下部に南無阿弥陀仏とある。高さ220cm、巾30cm。市内では唯一の国指定重要文化財。

二・七の市は山市のなごり

渋川では、昔から二と七の日に市が立ち、山地と平地の物資の交易があった。宝永3年(1706)上木の「山市往来」が残っている。「市日物立様覚」の記録が市指定重要文化財に指定されている。

沼田へ明治に北新道

渋川四つ角から阿久津に向う道を北新道という。国道17号、岩本村(現、沼田市)にさしかかる綾戸隧道の難工事が完成して、渋川から沼田往還へ通ずることとなった。バイクパスが通るまでは、日量2万台もの通行量があった。

涅槃の掛軸真光寺

市内並木町にある威徳山真光寺の涅槃の掛軸は、二間半四方もある大型のもので、天保13年(1842)檀家だけでなく村中の信者からの寄付によって調達されたもの。

農民に実学教えた吉田芝渓

芝中の地(渋川から伊香保へ向う途中)を開墾し自ら学んだ農業知識を実践した。村の遠近から、子弟が教えを受けに夜間も訪れたという。「養蚕須知」など実践的な手引書を著し、日本の江戸期における先駆的な農書と評価されている。本名友直(文化8年没)。墓は市内明保野にあり昭和26年県指定史跡。

は〜ほ

早尾神社の大ケヤキ

中村地区の国道17号線際に早尾神社があり、大ケヤキが群生、前橋方面からの通行客の目印となったという。樹齢1,000年と伝えられる古木がある。昭和27年県指定天然記念物。

左剣不動の伝説上有馬

市内有馬地区には、左手に剣をもつ不動尊が祀られている。普通は右手持ちになるのだが、昔、剣の達人が右手を切り落としたとか、いくら右手に持ちかえても一夜のうちに左手になってしまうという伝説を秘める。土地の人は、これゆえ「左剣不動」と名付けて祀っている。元禄9年11月(1696)建立。

ふるさと舞台に筆とる寒水

自然主義と社会主義的リアリズムの文学といわれ、「桑一枝」などの作は、農民の労働をモチーフとしているので農民文学という見方もある。寒水はペンネーム、市内石原で生まれ本名は清一郎、江見水蔭、田山花袋などの影響もうけた。明治34年頃、上京し「横野の華」に投稿。高崎の坂東日報に入社し、読売新聞の懸賞小説に応募して「氷採人夫」が優秀賞を受賞。明治37年、20歳の若さで没した。

遍照寺は月見の名所

昔から、渋川名所の一つにあげられた名庭園と共に知られる。渋川談義所の遺物があり、赤城山全容を見渡せる高台に寺がある。同寺は真光寺(天台宗)の隠居寺ともいわれる。

本州の中央渋川四ツ角

旧渋川町の中心街で、伊香保温泉、沼田市、中之条、草津、四万への分岐点。また、やや本州の中央にもあたる。昭和58年7月9日公募による「日本のまんなか緑の渋川」標語選定、シンボル塔を建てた。昭和57年から「へそ祭」も行う。

ま〜も

万日堂は開基全海

天台宗の古刹、威徳山真光寺の境内にあって、本堂と鐘楼の中間にある。名のとおり念仏を中心とした堂で、近年、カヤ葺の屋根を鉄板で覆った。寺伝では、同寺二十三世全海の開基、建物は元禄時代のものといわれる。邪鬼の彫物も美事である。

みそぎ流しは坂東河原

半田地区の年中行事。毎年7月末日に利根川畔の坂東橋下で名越祓が行われる。新竹を四方に立ててしめ縄を張り、一坪位の仮祭壇をつくる。この近くにカヤで束ねた半円のアーチを作ってその中を渡る。「水難よけ」「けがれを流す」等の神事。半田地区は、お的の式も例年行われる。

昔は元宿三国街道

渋川の町割りが、慶長10年(1596)頃行なわれ、渋川宿は、上・中・下の町割りがこの時期に整備されたらしい。元宿は、これ以前からすでにあって、元宿が存在したのではないかと考えられる。いずれにしても、三国街道はここを通って金井宿に向った。

女石の伝説黒沢不動尊

渋川七名石の一つ、女石は上郷地区でまつる不動尊黒沢にある石で、雨乞いや長雨に対する祈願もなされた。市内南町にある雄石と対で、今は離れているので、雨を降らせたりするのだともいう伝説がある。不動尊は自然の大きな石上の石像で彫りも美事である。

木彫見事な早尾のやしろ

市内半田にある。本殿は、高さ5.1m、間口1.48mのこけら葺き屋根、総ケヤキ造り、拝殿部に昇り龍、下り龍の見事な彫刻がある。側面三方にも各中国古事にちなむ彫物がみられる。榛名神社の双龍門や桐生市の天満宮の彫刻師と同じ、武州の小林源八郎作と伝える。市指定重文。

や〜よ

梁は落合アユ天下一

「落合」という地名は古く、平安時代には用いられていたようである。今は、利根川と吾妻川の合流点をさすが、この近くにやなが設けられた。大正末期や昭和初期には、人間の背丈け程の養蚕かごに、一尺位の大型のアユも入って十杯分が水に浸されて出荷を待ったと伝えられる。江戸期には、このほか渋川近辺の小河川で簗場が設けられた。

雪のあしたは良珊寺

曹洞宗如意山良珊寺は、市内上郷の山際にある典型的な山寺。かつては、市役所通りから、うっそうと繁るスギの大木の並木と、下草にはクマザサが続いていたが、今では遊歩道が寺の前面に開け、伊香保へも通じる。昔から渋川名所の一つにあげられ、山門の仁王、半鐘、門前の金仏、裏山の景観も素晴らしく京都の平沢旭山もここを訪れて「榛名山従遊記」を残している。伴松庵記もある。

寄居のあとにボタン寺

この寄居の跡地に、浄土真宗大谷派本願寺の末寺、正蓮寺が、越後野田村の願龍寺の僧玄可によって延宝8年頃(1680)創建されたという。現在職の手によって、境内に六小六百株以上の多色の牡丹を植え毎年、四、五月遠近の花見客でにぎわう。

ら〜ろ・わ

藍園は藍染しながら素読さす

江戸時代末期、渋川地方の郷学の発展に貢献した郷土の木暮足翁、高橋蘭斎、周休に学び詩文に秀れていた。家業の染物をしながら、郷村の子弟に実践的な教育をした。天下に有名な伊香保温泉に来遊した著名人との交流も多かった。山岡鉄牡舟は、藍園を評して「名利に走らぬ学者」と語った。文政元年(1818~)明治24年。墓は市内上郷にあり、昭和27年県指定史跡。

良珊寺山門の金仏

曹洞宗の北関東における名刹、最大山雙林寺十一世自然玄悦和尚の開山した末寺、伴松庵は寺の前身と伝えられる。金仏は仁王門傍のシダレザクラの根元にある。寺では古い年紀銘をもつ寺宝の一つである。半鐘は、昭和53年市指定重要文化財。

ルリがさえずる黒沢谷

日本の三名鳥、オオルリは、毎年四、五月頃、渋川の国道近くのケヤキやサクラの古木にも飛来して、奥山に向い営巣する。山地と平地が接し、小河川の多い地形で野鳥の餌も豊富で好まれるようだ。

霊泉あふれるもっかの湯

行幸田畑中に湧き出る清水、土地の人は「巴の水」という。昔は湯が湧出していたと伝えられる。行幸田は、明治中期に行幸記念として旧地名の「湯の上」が改名されたものである。(明治26年10月、明治天皇来渋)

六本松の休茶屋

市内明保野地区、伊香保への中間地点にあって、昭和初期まで「かご」や「人力車」が往来していた。茶屋はこの頃繁盛した。行幸があった「御蔭の松」の上にある。

渡し場あとの下郷河原

利根川と吾妻川には、昭和初期まで、多く町村道路の渡船があった。渋川市は利根川と吾妻川の合流地点の西方、榛名山ろくにできた集落で、橋がつくられる前は盛んに渡船が通船した。

<利根の渡し>⚪︎下郷の渡しー大正橋付近⚪︎大崎の渡しー大崎ー八崎⚪︎半田の渡し、坂東橋辺(古絵図に水上九十間とあり)(船橋という小船を多数浮かべ、渡り坂を施した仮橋も作られた。中村同。)
⚪︎半田、坂下の渡し、半田東田からの渡し⚪︎落合の渡し、落合から白井⚪︎白井の渡し、阿久津真木鳥ー白井

<吾妻川の渡し>⚪︎杢の渡し、杢の関所から北牧へ、仮橋もあった。⚪︎赤岩の渡し、上川島赤岩ー小野上⚪︎手島の渡し、上川島手島ー下小野子⚪︎小野子の渡し、祖母島上砂間ー小野上

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ブゲン

食べることと群馬の郷土かるたが好きなブロガー。好きな食べ物は「餃子」好きな上毛かるたの札は「よ」 かるたが繋いだご縁で光GENJIの佐藤寛之氏とラジオ共演を果たし、ライブイベントでは司会や補助を頼まれたことも…。自分には無縁と思われた世界を知り、戸惑いもあったがやれば出来ると自信に繋がる。つまり何が言いたいかというと、かるたって人と人を繋げる不思議な魅力がある♪

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