どうもブゲンです。この記事では群馬県渋川市の郷土かるた「渋川かるた」を紹介していきます。
ふるさとづくりを通じて心豊かな夢のある子供たちを育てる目的で作られたかるたになります。
地域の文化や歴史、地理などを遊びながら自然に学べるのが郷土かるたの良いところです。
渋川かるたは、渋川市が合併する前と後で2種類存在します。
この記事では合併後の渋川かるたの札と解説を書いていきます。
この記事で知れること
・渋川かるたについて
・絵札、読み札の解説
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渋川かるたについて
渋川かるたの初版は昭和60年12月に発行されました。
渋川市の魅力を余すことなく伝え、郷土を愛する心を育む目的でかるたは作られました。
当時の渋川市は、伊香保町・小野上村・子持村・勢多郡赤城村・北橘村との新設合併前で、これらの地域は札の対象外でした。
この記事で紹介する渋川かるたは、平成18年の新設合併後に作られた改訂版になります。
渋川市内の小中学校、高等学校、地域住民の方を対象に公募し、応募総数読み札1,050点、絵札約200作品が寄せられました。
企画・編集は「誇りあるふるさと創造特別委員会」
選考・監修は「渋川かるた作成実行委員会」
印刷は「田辺印刷所」となっています。
絵札、読み札の解説
あ〜お
400年以上の歴史をもつ伊香保温泉。石段を登って進み、更に伊香保神社を抜けたところに伊香保温泉湯元近くに「河鹿橋」がある。橋の周辺にはカエデ、モミジ、クヌギなどの木があり、朱に塗られた太鼓橋である「河鹿橋」とのコントラストが見事。夜間にはライトアップもされ、幻想的な世界を醸し出します。
石段街はおよそ400年以上の歴史があり、温泉情緒漂う伊香保のメインストリートとして有名。御関所前付近から伊香保神社まで360段、約300m。途中には与謝野晶子の「伊香保の街」の詩がある。もともと伊香保温泉は、この石段街の脇に旅館が並び、温泉は伊香保神社の上に位置する源泉地の湯元から傾斜を利用して各旅館に自然に供給されていた。今でもそのやり方は変わらず、石段街には何箇所かその温泉の配管や、分湯枡を見せるところがあります。
400年余前、水澤寺(水澤観音)の参詣客向けに上州産の小麦と水沢山から湧き出た名水でつくられた手打ちうどんが奉仕で出されていたことが起源。群馬県は古くから小麦の栽培が盛んで、現在でも群馬県は小麦の生産量全国第2位を誇っている。讃岐うどん、稲庭うどんと並んで日本3大うどんの1つであります。
2009年時点で59回目を迎える、半世紀を超えた伝統ある駅伝大会。昭和の合併前より始まり、その頃は北群馬駅伝大会として開催。参加チームは地域の代表として当時の北群馬郡の町村対抗から出発しました。そして参加者の幅を広め、渋川地域から群馬県、日本全国と拡大し、さらにはイタリアフォリーニョ市と世界に繋がってきました。また、この駅伝大会をきっかけにフォリーニョ市とは渋川市との姉妹都市として結ばれました。その後、小学生対抗のジュニア駅伝大会の同時開催と大会の幅も広がり、現在に至ります。社団法人渋川青年会議所の主催事業です。
阪東三十三観音の第十六番霊場で、一般には水沢観音の名で親しまれています。子宝の湯で有名な伊香保の温泉街から3kmほどのところにあります。六角二重塔は、6体の地蔵尊が安置されていて、回転式になっています。真心を込めて左に3回、回すと願いがかなうと伝えられています。
か〜こ
日本の滝100選のひとつ。赤城山の熔岩である鱗石英輝安山岩(棚下右)の絶壁に、たたら沢の水が37mの落差を一気に落ちる。滝裏が崩落して10mほどの岩窟があるため、裏側からも眺められます。
中村の早尾神社の御神木であり、根元周り約11m、樹高約19mの巨木です。樹齢はおよそ600年と言われています。近年になり樹勢が衰え始め、幹の空洞化が進んだため、平成8年に幹を治療しました。群馬県の指定する天然記念物となっています。昭和27年11月11日指定。
6世紀中頃、榛名山二ツ岳の噴火によって約2mもの大量な軽石に埋もれた村。保存の良さがイタリアのボンペイ遺跡に匹敵するといわれ竪穴住居などが発見され、当時の村の様子や暮らしぶりの解明に役立ちました。
1450年(宝徳2年)に白井城主長尾景仲によって建てられた曹洞宗の寺。開山の一つ拍子木・開山のつなぎガヤ・竜神水・千本カシ・鏡の井・山門の小僧とツル・忠度のさかさザクラ。これらにまつわる七つの不思議な話が残っています。
古くから子授け、安産の神とあがめられる神社。戦国時代には上杉氏や武田氏、遠くは北条氏からも崇敬を受けていました。5月1日の例大祭には出雲の国に発祥した出雲神楽の流れを受け継ぐ太々神楽が奉納され、多くの参拝客でにぎわいます。
さ〜そ
赤城北中学校の東、八幡宮にあります。このサクラはベニタチヒガンザクラで枝がしだれないこと、花の紅色が濃くて、ヒガンザクラと区別されます。樹高約12m、目通り4.8m、樹齢400年と推定される。現在は数本を残すのみですが、かつて八幡宮境内には桜樹が多く、桜森八幡宮と呼ばれ桜の名所として親しまれていました。紅色の濃いしだれ桜は各地に見られますが、枝が直なものは県下でも珍しく、貴重な名木といえます。
昭和42年(1967)に地元の少年によって発見され、群馬大学尾崎喜佐雄教授によって調査されました。縄文時代後期初頭(約4000年前)のもので、平面形が柄鏡形を呈し、平らな石が敷き詰められています。石敷きの周りに柱穴があり、中央に石組の炉があります。鏡部分の本体が径3m、柄部分にあたる出入り口部が幅0.7m、長さ2.3mを測ります。保存状態が良いため、縄文時代の文化・集落の研究上重要な資料となっており、今は現地に覆屋がかけられ公開されています。
鎮守諏訪神社のけ境内にあり、高さ38m、目通り9m、樹齢約800年。以前は境内に数本のケヤキがありましたが伐採されてこの1本だけが御神木として残されました。神社の東には、五科・沼田を結んだ沼田街道が通り、神社付近には溝呂木宿として栄え本陣・問屋をはじめ旅籠・煮売家(茶屋)などが軒を並べ旅人の往来も盛んでにぎわったようです。
北は永井の沢の急崖、西は利根川の断崖に望む崖端城で、南北260m、東西約180m。築城年は不明ですが「加沢記」に、永禄3年(1560)上杉謙信が関東に出馬し、沼田城を直攻せずここに陣を張り、降伏した沼田万鬼斎を引見したとあるので、それ以降の築城と考えられます。上杉や武田、北条の合戦の舞台として有名です。天正18年(1590)廃城となりましたが今も城のなごりが残っています。
利根川支流吾妻川の左岸にある。東南に連なる小野子山と同じ古い時代の火山で、その火口緑の一峰。晩秋から初冬の晴れた日に山頂に登ると、東村(現東吾妻町)は眼下に、榛名連山は眼前に、東には赤城山が大きく見える。坂東太郎は蛇行して南東方向地平線の彼方に消えている。北から西方向には真白な三国連山、浅間山、秩父の山々が一望でき、雄大な眺めの美しさが絶景です。
た〜と
ボタンの花で有名な寺で、親しみを込めて「ぼたん寺」という愛称で呼ばれています。境内には、例年4月の下旬から5月の上旬にかけて、およそ90種類・1,500株のボタンが色とりどりに咲き誇ります。また、境内地はかつて白井城の出城だった場所であり、上杉謙信の一族が住んでいたとも伝えられています。
津久田上の八幡宮境内に約100本が生えています。キンメイチクは別名メジロタケといい、節間の枝の生じた部分に黄金色の縦縞があらわれます。縞は交互に枝の末までつき、雨に洗われた後など、緑と黄金色の対比が夕陽に生えて美しいものです。マダケの変種です。
真壁調整池から佐久発電所まで続く導水管がまさに利根川まで落ちんとする所にそびえる高さ約80mの塔は橘山と並ぶこの地域のシンボル 。水圧調整用のタンクは2代目で昭和62年に建て替えられすっきりスマートになりました。ずんぐりボディに円錐形の笠をかぶった初代のタンクも約60年ものあいだ地域のランドマークとして親しまれてきました。妻の名「佐久」が付けられた発電所でもあります。導水管周辺には約100本の桜が植えられ花見客でにぎわいます。
群馬県はこんにゃく栽培面積の83%、収穫量の91%を占めており、全国一となっています。なかでも渋川市は市町村別生産量日本一を誇ります。市内のいたるところに、こんにゃく畑が目につきます。味がよくしみる生玉こんにゃくを使ったみそ田楽やさしみこんにゃくは絶品です。
宮田山不動寺の絶壁の洞窟に安置され、右眼を開き、左目は半眼の怒相をし、衣紋の強い線と軽快な裾、腕・手首・足などの珠紋帯の手法に鎌倉期の特徴がみられます。里見氏義の発願により建長3年(1251)に造られたものです。ほぼ等身大の白味を帯びた凝灰岩の丸彫。正面観がよく、威厳のうちに慈愛に満ちて、宮田のお不動様として親しまれています。
な〜の
真壁調整池のとなり、太陽をイメージしたモニュメントが目印です。全体が芝生を敷き詰めた小高い山になっているこの公園は日本庭園と子ども広場に大きくわかれています。園内には水車小屋や双眼鏡付きの展望台、水遊びもできる噴水モニュメント、テニスコート、弓道場などをはじめ、調整池を見下ろす斜面につくられたローラーすべり台やブランコ、ダイナミックなザイルクライミングなど子どもたちが大好きな遊具がそろっています。休日には子どもたちの元気な声が一日中響き渡っている四季折々の花に飾られた公園です。
渋川市は、日本そして群馬県のほぼ中央部、雄大な関東平野の始まる位置にあたり、古くから交通の要衝として栄え、豊富な水資源を活かした工業、山地の開拓による農業や、首都圏の奥座敷となる観光・温泉などを主要産業としてきました。主な交通網としてJR上越線の4駅、JR吾妻線には4駅があります。地形は赤城山、榛名山、子持山、小野子山に抱かれ、利根川と吾妻川の流れによって形成された谷地とともに、標高差が概ね1,400m以上となる起伏に富んだ地形を有し、地区の大半が自然的土地利用で占められています。
小野池は天保年間に名主であった小野沢平左衛門により整えられたと言われており、近隣の水田を潤すために重要な役割を果たしていました。昭和59年からはアジサイを中心とした植栽を進め、今では8,000株を超えるアジサイが植えられています。また、アジサイは市の花と制定され、市民から愛されています。
長尾景仲が利根川と吾妻川の合流地点に築城。前田利家に攻められるなど戦乱の世の舞台となりました。また、城下町だった白井宿は三国街道脇往還の宿場町として交通、経済、文化の大動脈となり栄えました。現在は八重ざくら祭りが春の行事として行われ、武者行列が見られます。
昭和51年4月に設置された、標高600m、総面積57.2ヘクタールの公園です。園内には散策道が整備され、数々の彫刻が設置されています。また、アジサイやサクラが多数植えられており、季節になれば見事な花を咲かせます。その他にも、陸上競技場、野球場、キャンプ場など、様々な設備が整っています。
は〜ほ
この建物は、アメリカ・ハワイ州が独立国だった当時(~1893年・明治26年)の日本駐在代理公使ロバート・ウォーカー・アルウィンが所有し、毎夏別荘として使用したものです。日本に残るハワイ独立国当時の数少ない遺構です。
天台宗関東五カ寺の一つに数えられる名刹です。境内には県指定重要文化財である「眞光寺の洪鐘」、「木彫狛犬」があります(ともに昭和27年11月11日指定)。ほかにも「壱銭職の聖徳太子塔」、「眞光寺涅槃図」などの寺宝があります。境内にはたくさんのアジサイが植えられ、あじさい寺としても有名です。
金蔵寺境内にあり、根元周り約6.2m・樹高約12m、樹齢はおよそ190年です。毎年4月には白い花を咲かせます。また、この花が咲く頃を里芋の植え付けの目安としていたため、芋種桜と呼ばれていました。群馬県の指定する天然記念物となっています。
渋川市は昔から誰ともなく「日本のへそ」と言われていました。そのことから、昭和58年にへそ祭りがスタートしました。「へそ」をテーマにした町おこしとして、地元商工業者が中心となり始まりましたが、今ではすっかり市民祭として定着しており、へそ地蔵とともに「日本のへそ」の象徴として愛されています。
明治の文豪・徳冨廬花の生涯と、作品の軌跡を展示紹介する記念館。代表作「不如帰」の初版本をはじめ、書簡や当時の写真などが見学できる。展示館とは別の木造建築の記念館は、廬花の定宿で、臨終を迎えた旅館・千明仁泉亭の離れを移築したものです。
ま〜も
子持山はかつて富士山と同じ形の成層火山でした。その上半分が爆発し獅子の様な形になりました。獅子岩からの眺望は360度の大パノラマが広がります。屏風岩は一枚の岩の板。長い間の浸食にたえてできあがった自然の芸術作品です。水平にはいった柱状節理がみごとです。
アゲハチョウの仲間で、黄色と黒の縞模様があり、後羽に朱色の帯があります。その可憐な姿から「春の女神」、体毛の多いことや近緑種の化石の発見などから「生きた化石」と呼ばれています。関東では現在、本市のモロコシ山、ヤハズ山だけに生息します。
古墳時代中期に榛名山で起きた噴火による火山灰で埋没した集落の跡です。竪穴住居、畑、祭祀跡などの遺構がほぼ完全な形で残されており、当時の人々の生活を知ることのできる貴重な遺跡です。黒井峯遺跡や嬬恋村の鎌原遺跡などとともに、イタリアの有名な遺跡になぞらえて「日本のボンペイ」と呼ばれています。
上三原田に生まれた水車大工・永井長治郎が文政2年(1819)赤城山天竜寺境内に建立し、明治15年現在の地に移築しました。板壁を倒して舞台を広げる「ガンドウ返し」、奥行きを深く見せる「遠見」、舞台を回す「廻転」、廻転部中央の二重を上下させる「二重セリ」といった四大機構を持ちます。二重セリはよそに例がなく、日本で唯一の機構であり、特殊機構をもつ常設の農村歌舞伎舞台として珍重されています。
2年に一度行われる、歴史ある渋川の祭りです。その勇壮さは北関東一といわれ、「あばれ山車」の異名をとります。各町ごとに趣向を凝らした山車が町内を練り歩き、ときに一堂に会し、たくさんの観光客を魅了します。歴史は古く、八坂神社と渋川八幡宮の例祭として江戸時代に始まったのが起源と言われています。
や〜よ
小野子山と子持山が裾野を接する標高460mの丘陵地に所在します。縄文時代早期の竪穴住居が群馬県内で初めて調査されました。昭和52年から発掘調査を実施した結果、縄文時代から弥生、古墳時代に及ぶ住居跡、遺構や土器、石器などの異物が確認された。住居跡は直径4.5m×5mの楕円形、深さは傾斜面に建てられたため、南側で14cm、北側で40cmである。床面は中央部が低く壁に向かって徐々に高くなっています。
吾妻川河畔に湧く「塩川温泉」(旧名)は、昭和56年、旧小野上村の村営「小野上温泉センター」として誕生しました。公共の日帰り温泉施設としては全国でも先駆け的存在で、泉質の良さでも”美人の湯”と知られ、開湯以来約27年間にわたり、延べ740万人もの人たちに利用され、愛され親しまれております。
建長年間に土地の豪族・渋川義顕が鶴岡八幡宮を勧請して創建したものと伝えられています。境内には本殿を始め、弊殿、拝殿、神楽殿などがあります。そのうち本殿は、江戸時代初期に建立したもので、群馬県指定重要文化財となっています。(昭和36年1月6日指定)また、渋川山車祭りとも縁の深い神社です。
ら〜ろ・わ
旧石器時代から現代まで、達綿と続く北橘地区の移り変わりを知ることが出来る資料館。地区内の歴史遺物、民俗や文化財の展示や郷土芸能などを学ぶことが出来る伝承学習室があります。敷地内の「たちばなの郷公園」には縄文時代の竪穴式住居「小室敷石住居跡」が実物大に復元されています。また隣接して「特産物直売所」もあり、地区内で採れた新鮮な野菜や加工品が並んでいます。
伊香保町の南西にそびえる二ツ岳(雄岳、雌岳の総称)を中心に広がる自然公園。2,240㎢の広大な園内には、5つのハイキングコースがあり、春はレンゲツツジやヤマツツジ、秋は紅葉やヤマモミジを楽しみながら散策できる。コースの途中には、二ツ岳風穴や鷲巣風穴があり、大自然の雄大さを実感することができます。
利根川は「坂東太郎」の異名を持ち、関東平野を北西から南東へと流れる河川です。その流域面積は日本一であり、日本を代表する大河の一つです。また、吾妻川は吾妻郡を西から東に流れ、渋川市内で利根川と合流します。利根川河岸にはいくつかの梁があり、それらは渋川市の夏の風物詩の一つとなっています。
本尊は聖観世音菩薩の石像であり、他に鋳鉄製と青銅製の像がある。御堂は岩窟を利用して岩に作り付けた珍しい建物で、床下が高く、はしごを上って参詣する。内陣は建物が古く、天正年間に建立したものと思われる。4月祭典が行われ、近郷からの参詣者が多数訪れる。また、景勝地でもあり、日々の参詣者も多くみうけられます。
温泉街と山頂の群馬県総合スポーツセンター伊香保リンクを結ぶロープウェイ。榛名や上信越の眺望はすばらしい。最近では、伊香保森林公園に出かける方や展望台を見に行く方が増えている。夜間の運行も近年始まり、渋川市の夜景を展望台から楽しむこともできます。
平家物語にも登場する武将、木曾義仲を祀るために、筑摩郡の三座(岡田神社・沙田神社・阿礼神社)を勧請して創建。木曾明神、竜の宮とも呼ばれている。境内の杉木立の中に湧水があり、大きなセンキョウの群落が見られ自然環境保全地域に指定されています。