上毛かるた

上毛かるた【誕生から全札の解説】

どうもブゲンです。今回は「知ってるようで知らない上毛かるたのこと」というタイトルでお送りします。

上毛かるたについてみなさんが思うこと…

・そもそも上毛かるたって何で誕生したの?

・「い」と「ら」が赤いのはなぜ?

・何で昔に作られた物が今でも続いているの?

・子供の頃にしかやらなかったのはなぜ?

・絵札、読み札を覚えているけど意味は知らない。

などなど…色々思うところありますよね。

この記事では、それら一つ一つを出来るだけわかりやすく紹介していきます。

一緒に上毛かるたに関する知識を深めていきましょう!

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知ってるようで知らない上毛かるたのこと【かるたの誕生】

ここでは、上毛かるたが誕生した経緯について解説していきます。

全て書くと長くなってしまうのでポイントをまとめてみました。

ポイント

・上毛かるたを作った人

・作られることになった経緯

・初版が発行されるまで

・はらから飴

ひとつひとつ見ていきましょう。

上毛かるたを作った人

上毛かるたを作ったのは浦野匡彦(うらのまさひこ)という人物です。

明治43年、群馬県吾妻郡長野原町に十二人兄弟の六男として生まれました。

浦野氏の家系は代々神職を務めていました。長野原町には「王城山神社」があり、そこが上毛かるたマニアの聖地ともなっています。

彼について詳しく書くとかなりの文字数になってしまうので、後日別の記事にまとめたいと思います。

作られることになった経緯

当時の日本は敗戦直後で、地域は壊滅的な被害を受けていました。

さらに、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下にあったため、日本の歴史、地理、道徳教育などが禁止されていました。

この様子を目の当たりにした浦野は、将来を担う子供たちに日本人としての誇りを失ってほしくない、自分たちの郷土に誇りを持ってほしいなどの願いを込めて、教科書に代わる、遊びを通して学ぶことができる「かるた」に目をつけたのです。

初版が発行されるまで

上毛かるたの初版は昭和22(1947)年に発行されました。

製作構想が発表されたのは昭和22年1月11日。上毛新聞の紙面です。

かるたの制作にあたっては、幅広い分野の関係者20名が選考委員となり、読み札の内容や素材などを検討していきました。

紙面での募集開始から締め切りの3月20日までに272件の素材が集まりました。

集まった素材から札を決めていくわけですが…ここで当時日本を占領していたGHQと一悶着起こります。

それが後々解説する「い」「ら」問題です。

はらから飴

上毛かるた誕生に欠かせない物の一つにはらから飴があります。

当時の日本は敗戦直後で貧しい暮らしを余儀なくされる人が多くいました。

ある日、浦野は農家の軒先に積み上げられた残り物のサツマイモの利用方法からヒントを得てイモ飴を作りました。

それがヒットし、サツマイモ生産農家や運搬・加工・販売する人たちの生活資金になっていったのです。

同時に、その資金の一部が上毛かるた制作のために使われていたそうです。

はらからは、同胞(同じ国民、仲間)を意味する言葉です。

「い」と「ら」が赤いのはなぜ?

2枚の札だけが赤い理由は、当時日本を占領していたGHQと浦野氏側との激しいバトルがこのような形で残ったものなのです…。

と言っても???となるだけなので説明していきます笑

「作られることになった経緯」に書きましたが、当時の日本では歴史・地理・道徳教育が禁止されていました。

そんな中でも上毛かるたの札にはその当時有名だった人物(国定忠治や小栗上野介)をどうしても読み込みたかったのです。

しかし、GHQの検閲により国定忠治は任侠者、小栗上野介は武士との理由で拒否されてしまいました。

ここであれ?と思った方もいるでしょう。そうです「れ」の札に読まれている新田義貞は武士です。

これも当初は難色を示されたようですが、浦野氏の粘り強い交渉で読むことが認められたのです。

違いはなんだったのか謎ですね…。

読むことが許されなかったこれらの人物を「義理人情」という群馬県民の気質を表す言葉に託し、いつかこの人たちを読んだ札を入れるんだという思いを、力強い雷神様の絵に込めたとされています。だから赤いのです。

では「い」の札が赤い理由はなんでしょうか?

ここで、上毛かるたを新品で購入して蓋を開けた時のことを思い出してください。

いろは順に入っていますね。先頭には「い」と「ら」があります。

ちなみに「ら」の札は、順番をわざわざ入れ替えてまで先頭に持ってきているのです。思いの強さが伝わりますね…。

そうなると「い」の札が赤いのにもちゃんと理由があります。

それは、これまでの群馬の発展に貢献した方々に感謝しつつ、これからの私たちが明るい未来を作っていきますという意味が込められているのです。

何で昔に作られた物が今も続いているの?

上毛かるたの説明にはこんなことが書かれています。

この「かるた」は、私達が楽しく遊びながら、私達の郷土である群馬県の歴史上有名な人物や、重要な産物、代表的な都市や、山と川、温泉等を正しく理解し、知らず知らずのうちに、郷土への知識を深め、郷土への愛情を高めていきたいと考えて作ったものです。

それと「い」と「ら」が赤いのはなぜ?で説明しましたが、群馬県民の気質を表す「義理人情」という言葉がヒントになっていると私は考えます。

上毛かるたは群馬県民の郷土愛を深める目的で作られ、それが親から子へと伝えられてきました。先人たちの思いを途切れることなく未来へと繋いでいくことが今を生きる私達の役目のように思うのです。

子供のころにしかやらなかったのはなぜ?

子供たちが群馬の歴史、地理などを遊びながら学ぶことを目的に作られたからだと思われます。

上毛かるたには一定のルールが設けられています。それは礼儀作法に始まり、かるたを通して品性を高めるのも狙いになっています。

また、それぞれの地区の公民館などに集まり子供同士の仲を深めるという意味でも上毛かるたは役立っているでしょう。

2013年、大人が対象の上毛かるた大会「KING OF JMK」が発足しました。

子供の大会と違い、予選などはなく「県大会」「日本一決定戦」がそれぞれ群馬と東京で開催されています。

18歳以上であれば参加条件は特にないので、気になる方は検索してみてください。

絵札、読み札を覚えているけど意味は知らない

札の意味を知らない人は意外に多いと思います。

かくいう私も、社会人になり上毛かるたと再開するまですっかり忘れていました…。

ということでここからは1枚1枚札の解説を紹介していきます!

これを覚えれば、お子さんに聞かれた時も安心ですよ♪

あ〜お

群馬と長野の県境に、絶えず煙をあげている浅間山が天明3年の大噴火に溶岩を押し出し、幅2km・長さ5kmにわたって流下した。それが風雨にさらされて怪奇な姿で積み重なっているのが鬼押出しの奇観である。

古く1,000余年前万葉集に名を歌われた伊香保は、今も日本温泉の王座を占めている。榛名山の中腹800mの所にあって、北に展望ひらけ、四季それぞれによい。

日本武尊の伝説に名高い峠で、関東地方の西北を押えているので、昔から要地として知られた。中仙道がこの峠を通り、峠の下の横川に関所があって通行の人々をあらためた。今もその跡がある。横川から軽井沢への道は、紅葉の頃ハイキングの好適地で、頂上に有名な熊野神社がある。

正月6日の少林山の星祭りは、地元はもちろん各地からの参詣人でにぎわい、関東一の名物となっている。張子のだるまを売る店で埋ずめられ、縁起を祝う人々はこれを買い、片眼を入れて今年の福運を祈る。養蚕地や機業地での一風習である。

東群馬の中心都市太田氏を有名にしているのは、子育呑竜と金山である。「ほかにきはないまつばかり」の金山には、由良氏のきずいた城跡と新田神社がある。大光院は400年前に僧呑竜によって開かれ、その後信仰は年と共に盛んになり、参詣人が絶えない。

 

か〜こ

お江戸見たけりゃ高崎田町と歌われた高崎市は、中仙道の宿駅として又城下町として発達したのであった。今は商工業都市としても、交通都市としても重要で、ここには高崎線・両毛線・信越線・上越線・八高線それに上信電鉄や各地へのバスが集中している。

西に京都、東に桐生と相対して有名な機業地、起りは和銅(1,300年前)にあるという桐生御召・羽二重・人絹帯地絹綿交織などで有名である。日本最初の輸出向絹織業地渡良瀬川に臨み山を負い、両毛線・東武電鉄・上毛電鉄等の交通に恵まれ、郡大理工学部、県立各種の学校がある。

白根山のふもと海抜1,400mの高所にあり、空気清く風景美しい別天地であり、昔から特殊の泉質で有名である。明治初年ドイツの大家ベルツ博士によっても認められた。

昔は厩橋といい、戦国時代に城下町として生れ、江戸時代には酒井・松平両氏10余万石の城下町で、領内の政治経済の中心地。群馬県の養蚕の発達と共に製糸業地となり、明治以後は県庁もおかれて政治・文化・経済の中心地となり、輸出生糸の生産地として全国に有名。

宗教家評論家として世界的偉人、高崎藩の江戸屋敷に生れ、札幌農学校から米国の大学に学び、帰朝後迫害と貧窮の中に著述に専念し聖書の研究と発行、日露戦役には非戦論を唱えた熱烈な基督教者であった。「如何にして基督教者となりしか」は世界的名著である。

さ〜そ

神流川の中流1kmの間は河底に青質の岩石が散在し、清流・紅葉と映じる名勝地であった。附近の地質は日本最古で有名。三波石に近い虚空蔵山の冬ざくら(指定名勝及び天然記念物)は11月末から1月頃まで花を開く、珍しい種類である。

県内の各所でみる二子塚や円墳は、奈良時代以前の豪族の墓で全国にあるが、群馬は奈良・宮崎両県と並んだ古墳県で、その数13,000余という。中に前橋市総社町と旧勢多郡荒砥村の二子山は特に名高い。当時群馬と栃木の両県は毛野(ケヌ)の国といって一つであったが、後にカミ・シモに分かれた。

遠くすそ野をひく赤城山の姿は、関東諸山の中の雄である。山上に湖水(大沼・小沼)があり、スケート・ボート遊びによく、紅葉・新緑・スキーによい。つつじの美しさは天下一品である。複式火山地蔵岳(中央火口岳)黒檜(海抜1,828m)鈴ガ岳荒山(以上外輪山)大沼(おの)小沼(この)赤城神社

群馬と新潟・福島三県境にまたがる景勝地で、沼は海抜1,600mの地にあり、燧岳(ひうちだけ)を映す青い湖面と原始林に囲まれた神秘境。原はその西4kmのところにある湿原で貴重な高原植物が多く、初夏に遊べば、全く仙境である(尾瀬国立公園)。沼は燧岳等によるせき止め湖

農村娯楽第一の八木節は、栃木県八木宿の清三から起り、明治20年頃八木宿と新田郡木崎宿とを往来し、得意の美声で有名になった。その後大正頃堀込源太(栃木県人)と矢場勝(旧山田郡矢場川村)の両名が、それぞれ音声と節まわしとを工夫し、はやしもととのって、今日の盛大のもとを作った。

 

た〜と

沼田市から利根川の支流片品川に沿ってのぼること20kmでこの滝に達する。各地に滝は多いがこれ程の奇観も少ない。片品川底の岩の上を流れる水が岩を裂き、奔流がこれに注ぎ落ちる壮観は、いうべき言葉もない。附近に老神温泉がある。

(平成31年4月1日現在)

人口数1,941,195人、世帯数801,429世帯。初版発行当時は160万人だったが、その後、170・180・190・200と変化している。なお、現在は200万人を下回っているが、読み札が変わることはないそう。

県庁位置( 東経130°03'39"、北緯36°23'28")面積6362.28平方キロメートル。県土の約3分の2が丘陵山岳地帯。
12市(前橋・高崎・桐生・伊勢崎・太田・沼田・館林・渋川・藤岡・富岡・安中・みどり)
7郡(北群馬・多野・甘楽・吾妻・利根・佐波・邑楽)

利根郡みなかみ町(旧月夜野町)にある千日堂は、茂左衛門を祭ったもので、今もなお参詣人が絶えない。寛文4年領主真田伊賀守の悪政に泣く、77ヶ村の民衆を救おうと、茂左衛門は一身を犠牲にし、辛苦の末将軍に直訴した。領主は領地を取り上げられて処分され、茂左衛門も妻子と共に刑に処された。

流程160km満々たる水をたたえて太平洋へ注ぐ利根川は、関東一の大河として昔から坂東太郎の名が高い。上越国境の大水上山からしたたる水が、赤谷・薄根・片品・吾妻・碓氷・烏・鏑・神流・渡良瀬の諸支流をあわせて大河となり、関東平野を横ぎって流れる。発電かんがい交通上の価値が大きい。

な〜の

安中市を通る旧中仙道の両がわに、1kmにわたって見事なすぎ並木があった。江戸に幕府が開かれ、街道が整備された時、宿駅を設け、1里毎にえの木を植え一里塚と並木が作られた。

安政条約で日本が開港すると、生糸は一躍輸出品の花形となった。明治政府は製糸技術改良のため仏人ブリュナーを技師として招き、富岡に仏国風の器械製糸工場を建て、明治5年から操業をはじめ、日本の製糸業の基礎をおいた。26年以後は民業に移った。今も煉瓦造の建物が昔のまま残る。

沼田市は利根郡の中心都市で、この市に程近い旧新治村に、講談や芝居で有名な塩原太助は生れた。単身江戸に出て神田佐久間町の薪炭商山口屋の下男となり、勤勉で店を構え、勤倹節約で大きな財産を作った。公共のためにもよく尽し、榛名神社に今も献燈が残っている。

上信電鉄の終点下仁田町は妙義山を北に仰ぐ甘楽郡の奥地にあって、この地方の中心地である。西は峠によって長野県へ通じ、附近に黒滝山や稲含山の名勝がある。こんにゃくは利根・吾妻郡でも産するが、特に下仁田附近が優秀で、食用のほか工業上の用途がある。ねぎも附近の名産である。

山の姿の美しいこと上毛三山中の第一、榛名富士の影をうかべる湖のほとりから、沼の原へかけては行楽の適地、新緑・盛夏・紅葉ともによく、冬は湖上のスケートやわかさぎ釣りも興が深い。

は〜ほ

館林市は東南群馬の中心都市で、昔ここに尾曵城があった。その城跡の堀に臨むところが、つつじが岡公園で又花山ともいわれる。春は樹齢300年以上の2千株のつつじの老樹と樹齢100年未満の3千株のつつじが開花する美事さに、行楽の客でにぎわう。

高崎市附近の旅行者の眼を驚かす観音像は、市西の観音山の上にそびえている。仰げば青空高く仏体そびえ、仏像の足もとからは烏川を隔てて高崎市街を見下ろし、遠く関東平野がひらけ、赤城・榛名も望める。清水観音堂・洞くつ観音などがあり、高崎市民一日の行楽地である。

子供たちにおなじみの分福茶釜は、館林市内の茂林寺にあり、今も数々の寺宝と共に公開されている。この寺は、応仁年間(およそ500年前)の創建と伝え、境内広くゆかしい寺である。

明治の宗教家・教育者としての新島襄を持つことは本県の誇りである。安中藩の江戸屋敷に生れ米国で苦学し、帰朝後明治8年京都に同志社を創立し、キリスト教主義の教育に従事した。来り学ぶ青年多く、精神界と教育界へ残した足跡は偉大である。

本県が生んだ明治大正時代の大文学者の一人、自然主義作家の第一人者、館林に生れ若い頃上京して辛苦をなめつつ独学力行し、従軍記者や雑誌編集者となり、自然主義文学を唱えて文学界に貢献した。漢詩・随筆短歌もよくした。

ま〜も

群馬県は早くから養蚕地として知られていたが、生糸が重要輸出品となってから特に盛んになった。製糸技術の改良は、明治3年前橋藩士の手で器械製糸が始められてからで、それ以後前橋を中心に発達した。福島県と共に日本の主要生産県である。

利根郡の旧水上町は、利根川の清流を中にした温泉郷で上越線の開通以来有名になった。又冬はスキーの適地である。上越国境にそびえる谷川岳は、近年特に登山者をあつめている。

日本三古碑の一つである多胡碑は、今から、1,300余年前(和銅4年)に多胡碑を置かれた時の、弁官符の文を刻んだものである。附近の山上碑・金井沢碑とともに上野三碑と呼ばれ、このあたりの古代文化の発達を伝えている。

桐生市と並ぶ県下の二大絹織物生産地、伊勢崎銘仙は文政の頃にはじまる。養蚕県の真中にあって発達し広く日本に名を知られた。両毛線に沿い東武電車が東京に連絡する。商工業共に盛んである。県立各種の学校や地方事務所などがあり東南群馬の中心都市である。

石門高くと歌われる妙義山は、上毛三山中の奇勝第一である。ふもとの妙義神社から登り、中の岳神神社附近の岩の起伏が紅葉にはえる勝景は、他にくらべるものもない。白雲山・金鶏山・金洞山の3峰がある。集塊岩状複輝石安山岩の溶岩台地が、長年風雨にさらされて出来た。

や〜よ

吾妻川の中流約4kmにわたる一大渓谷。清流が岩に激してほとばしり、新緑・紅葉にはえる風光は関東渓谷美中の第1位である。附近に川原湯温泉がある。

上野一の宮として昔から崇敬される。安閑天皇の元年(1,400年前)の創建と伝え皇室並びに武将等の尊敬あつい。社殿は江戸時代初期の建築の特色を伝えて華麗社宝の鏡と共に重要文化財に国から指定されている。

四万川の上流にある温泉で、三方は山に囲まれ、一方は谷が開け、清流は岩の間をはしり、春は若葉夏は避暑秋の紅葉も美しい。1,000余年前に発見された歴史があり、近年ますます有名。

ら〜ろ・わ

冬から春にかけて北関東を吹きまくる空っ風と、夏の雷とは群馬県の地形が生んだ上州名物である。こういう自然の名物のほかに群馬の県民性が、人情に厚く義理に固いのも特色である。社会のためには自分を忘れ、公共のために利益をかえりみない美風こそは、真の上州名物であろう。

水の豊かな川に恵まれた本県が、工業電力原や家庭電化にも農業電化にも果す役割は大きく、その電力は遠く京浜地方へ供給される。

関東平野と日本海側とをつなぐ関門の一つで、上越線がここを通っている。三国山脈中の茂倉岳の真下を通る海抜600mの高さにあり、新清水トンネル(昭和42年9月開通)は延長13,500mで、当時日本第2位、世界第7位の長さで名高い。又上り列車が通る清水トンネルの次の湯檜曾トンネルはループ式になっていて珍しい形式である。

後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒された時、上野では新田義貞が一族と共にこれに加わり、鎌倉に討ち入った事は歴史上に有名である。その後も義貞は南朝のために尽くしたが、越前藤島城攻撃中に戦死した。

明治初年日本三農の一人とまでたたえられた伝次平は天保3年前橋市に生れ、青年時代から農事にはげみ、又赤城山に植林した。その知識と能力が認められ、内務省御用掛・勧農事務取扱・農商務省農事試験場技師となり、農事改良や駒場農学校設立に尽くした。

日本文化史上に輝く和算の大家に、関流の祖関考和がある。本県藤岡にゆかりの人で、江戸で研究をつづけ世界的学者となった。その後和算はますます発展して大家を出したが、群馬県には斎藤宜義や萩原禎助のような偉才を出した。

  • この記事を書いた人

ブゲン

食べることと群馬の郷土かるたが好きなブロガー。好きな食べ物は「餃子」好きな上毛かるたの札は「よ」 かるたが繋いだご縁で光GENJIの佐藤寛之氏とラジオ共演を果たし、ライブイベントでは司会や補助を頼まれたことも…。自分には無縁と思われた世界を知り、戸惑いもあったがやれば出来ると自信に繋がる。つまり何が言いたいかというと、かるたって人と人を繋げる不思議な魅力がある♪

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