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長野原町かるた全札まとめ(群馬の郷土かるた)
どうもブゲンです。この記事では、群馬県長野原町の郷土かるた「長野原町かるた」を紹介していきます。 上 ...
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札の解説
中山道裏街道は、板鼻宿より分かれて須賀尾峠を超え狩宿宿を通過し沓掛(くつかけ)方面に通じる脇往還である。草津方面への浴客や行商人等の通る通路で、途中狩宿に領土治安維持のため寛文2年(1662)関所が設置された。以後明治元年に廃止されるまで200年余り治安維持にあたった。現在、関所跡の碑が建設され往時を偲ぶことができる。
狩宿関所跡
戦国時代上田・沼田間は真田氏にとって重要な戦略路であった。慶安4年(1652)真田氏は狩宿に小規模の私関を創設した。この地は狩宿新田と呼ばれ、中山道の脇往還としての信州街道と、沓掛、草津、川原湯間の往還の交差点の要衝で、寛文2年(1662)徳川幕府はこの地を公関として裁決、同4年(1664)3月25日普請が開始された。当時の掟によると善光寺への参詣の旅人と、草津、川原湯への入湯客が主な取締の対象で特に「入鉄砲」と「出女」の詮議は厳しかった。「狩宿関所跡之碑」の記念碑は、昭和45年応桑老人会と町当局の手によって建設された。撰文は応桑出身の郷土史家萩原進氏、書は長野原の小学校で教鞭をとったことのある米倉大謙氏で、碑の下方の関所の見取図は関守の一場氏の子孫が保管していたものである。関所の建物は東西20間(約37m)南北24間(約44m)の堂々たるものであった。関守4名と地元の人々の課役によって約200年余りにわたり維持されてきたが、幕藩体制の崩壊とともに明治元年(1868)廃関となった。
長野原町教育委員会