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長野原町かるた全札まとめ(群馬の郷土かるた)
どうもブゲンです。この記事では、群馬県長野原町の郷土かるた「長野原町かるた」を紹介していきます。 上 ...
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札の解説
戦後、国策による食糧増産と将来の活路を求めるため、浅間高原へ各地から集団的に入植があった。当初は丸太柱に笹の屋根という苦難の続く日々だったが、その困苦にもめげず、原野を開墾して食糧を自給し、乳牛を導入し、さらにリンゴ苗を育て野菜も良質なものを生産し、今では全国的にも成功した開拓地といえるまでになった。
満洲開拓記念碑
戦争は多くの人類を殺傷し、国民の総ての生活を破壊する最大の罪悪である。第二次世界大戦は激烈を極め、我が国の食糧難は切迫し、祖国の危急存亡に直面した昭和十九年三月〜二十年四月、私たち青少年一四0名は、甘楽郡(二十三ヵ町村)より選抜、満洲国に派遣され、満洲国北安省通北県九道講の大平原を開拓して群馬報国農場を建設し、食糧確保と北の守りに砕身の力を尽して奉仕した。昭和二十年八月終戦後は、異国での敗戦の悲惨さと戦い、この上ない辛酸を受け、これを克服し、六人の犠牲者を残して昭和二十一年十月帰還した。思えば私達の報国開拓奉仕の行為が国際平和共存のための営みであったなら、どんなに誇らしくすばらしい業であったろうに…。戦争の惨状・悲哀は筆舌に表し難い。私たちは人間として、この世の続く限りどのようなことがあっても、二度と戦争の罪悪をくりかえしてはならないことを永遠の子孫に訴え、恒久平和を祈念してこの碑を建つ。
報友会 題字 群馬県知事神田坤六