吉岡郷土かるた 郷土かるた

吉岡郷土かるた全札まとめ(群馬の郷土かるた)

吉岡かるた

どうもブゲンです。この記事では群馬県吉岡町の郷土かるた「吉岡郷土かるた」を紹介していきます。

吉岡町の歴史、文化、自然を学ぶ目的で作られたかるたです。

平成に入ってから制作された、比較的新しいかるたになっています。

この記事で知れること

・吉岡郷土かるたについて

・絵札、読み札の解説

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吉岡郷土かるたについて

吉岡郷土かるたは、平成9年3月に発行されたかるたです。

制作は吉岡町子ども会育成連絡協議会で、後援が吉岡町です。

当時の制作委員は委員長、副委員長、委員、事務局で構成されており、12名が携わっていました。

吉岡町の歴史、文化、自然に興味を持ってもらうため、大人も子どもも親しみやすい絵札・読み札を意識して作られたようです。

かるたの印刷は株式会社上毛新聞社となっています。

吉岡郷土かるた絵札・読み札

あ〜お

三国街道

高崎を出発した三国街道は、本町に入ってから榛名のすそのを通るわけである。参勤交代の大名行列をはじめ、旅客の数は多かった。若葉のころから紅葉時にかけて沿道の景は、雄大ですばらしい。

小倉山

猪や狼等が食物を求めて里へ下り、人畜に害を加えるのを防ぐため、作られた土堤が猪土手である。高さも幅も2メートル以上あったであろうが、長い年月を経て次第に崩れ去ったけれど、小倉山にははっきりと形が残っている。榛東村から吉岡町を過ぎて、北方はるか渋川の方まで続いていたといい、中世のころ、箕輪城と白井城をつなぐ道が、この土堤に沿ってあったのだという。

畑中

北下畑中の高橋均家の庭にある。今もなお開花し、結実する。幕末期、前橋城主が「献上すれば、苗字帯刀を許す」といったという。

矢落観音

漆原長松寺隣の丘上に建っている丹塗りのお堂が、人も知る矢落観音、別称ざる観音である。正月14日が縁日。

十石塚

溝祭東部、前橋県道に沿って北側に雑草茂る十石塚がある。大久保の地を切り開いたと伝える太郎の墓という。平治の昔(平安時代の終りごろ)のことである。

か〜こ

東福寺

日暮れどき、ゴーンと鳴り響く東福寺の鐘の音は、里人の耳にどんな思いを運んできたことであろうか。戦時中の供出から、奇しくも再び寺へ戻った鐘は、本堂の表入口につられて、昔をしのぶよすがとなっている。上野田景の一つでもある。

そっ首忠兵衛

桃井13ヶ村と伊香保以下5ヶ村との間の二ツ岳秣場入会の紛争の訴えを受けた奉行所は、1668(寛文8)年7月、検使を遣わし、現地で裁定した。検使は持っていた竹の枕を二つに切り、村々の総代が居並ぶ所に投げ与えたところ、下野田の名主忠兵衛、すかさずこれを拾いあげ、「二ツ獄(2本の竹)有難く頂戴致します」と申しあげ、13ヶ村側が勝訴になったという。

陣場宿

冬の夜の陣場の夜廻りは近村まで知られていた。明治初年(1868-)来のことで、90余年の無火災は県から表彰の栄誉を受けた。

華蔵寺

下野田森下の華蔵寺の山門脇に庚申の石塔郡がある。その中の青面王と深く刻まれた文字を囲んで、庚申の文字が百字百通りの字体で書かれている。人も知る書聖角田無幻の書である。

吉岡町古墳

吉岡町には古墳の数が極めて多い。1935(昭和10)年の調査で約400、1973(昭和48)年には70余に減っていた。開拓により破墳され、田畑となったものが多い。古墳は古代人の墳墓である。現在は、その又半数以下となっている。

さ〜そ

三ノ宮

「天平勝宝2(750)年この神を祭ると言う」とある。祭神は彦火火出見命。上野三ノ宮伊香保神社の里宮といわれている。町指定重要文化財となっている。

清水超え

今の高崎渋川線で、1885(明治18)年開通、「新道」と呼ばれた。1893(明治26)年から定員10名の鉄道馬車、1910(明治43)年から48人乗りの電車が走った。昭和の初期(1926~)からバスも走り、やがて電車は廃止になった。

水利権

昔は、米作りのための水争いは絶え間がなかった。滝沢川の水を一滴も多くとの野田、小倉の紛争は、幕府の裁定により、小倉二分(20パーセント)野田八分(80パーセント)となり解決をみた。今に残る「二分堰」はその名残りである。滝沢川の小井堤橋下下流左岸側よりが二分堰である。

釜屋の地

「十王十体なんまいだあ」と唱える十王様は、各地にまつられているが、十体が揃って保存されているのは珍しい。南下釜屋の田子家墓地に隣り合って建つ仏堂内に安置されている。十王様は、生前の罪を裁く裁判官で、念仏のとき、罪軽かれと願うのである。

吉岡町

吉岡町の人口は、当時からほとんど変わっていない。

た〜と

丸山五輪塔

南下の西南隅、榛東との町境近く立つ丸山の東、田んぼの中に建てられている。どんな豪族の墓か知りたい。百日ぜきをなおすご利益があるという。

高橋本陰

短歌を作る人は決して少なくない。しかし、長歌の作れる人は少ない。北下駒沢家の生まれで、1836(天保7)年、57才で亡くなり、高唱寺に葬る。

見城址

戦国のころ、上杉、武田、北条と卍巴に入り乱れたころの箕輪城の物見の城か。下野田北部にある。

九十九谷

船尾滝から東南にかけて無数の奇岩がそそり立つ、その間にはさまれて、あるいは深く、また浅く谷が並ぶ。99を数えるので九十九谷と呼んでいる。平安の昔、この辺りに大寺院が建てられ、それにまつわる秘話、哀話は、いつまでもふもとの人たちに語り継がれることであろう。

塔の辻

塔の辻バス停を右に進んだ所に、この近くには珍しく大きな貯水池がある。滝沢用水は、他地区への分水があるので、村内での必要量の水確保のため設けられたもので、百ヘクタールの水田の水を確保しているという。

な〜の

陣場の花火

正平年間(1346~1370)から伝えられてきた陣場の花火は、全部絡繰花火、こんな小農村に、難しく厄介な花火が伝わっていたことは不思議である。1928(昭和3)年以来休止状態。

八坂の井堤

「伊香保ろの八坂の井堤に立つ虹のあらはろまでもさ寝をさ寝てば」と万葉集に詠まれたのは、滝沢川の南岸井堤の地であろうと橋本直香はいっている。滝沢断崖に立つ休み松から見渡す対岸の雑木林が、上野田八景の一つ「井堤のほととぎす」の地である。

森田安次

野田神影流の達人森田安次が伊香保街道の横塚で怪物を切ったので、村の人々は安心して通れるようになったという。安次は上野田の人、退治の場所は横塚、滝沢大橋を渡る手前の小井堤地内、その話にまつわる供養等は、肩の部分が切り取られている。

根古屋の地

白井城の出城であるといわれ、城跡は瀬来、田端、駒寄台に及び、本丸は柳岡家屋敷一帯にあったと考えられる。城主が日常生活していた館は、台地下の根古屋にあった。

一里塚

旧三国街道筋、上野田屋敷東をはずれる辺りの庚申塚のところにある。昔も榎(えのき)が植えられていたが、今も二代目の榎が立っている。又、町指定文化財となっている。

は〜ほ

大泉寺

大久保大泉寺境内に、俳聖芭蕉の「鐘つかぬ里は何をか春の暮」の句碑が立っている。この地の俳諧を楽しんだ者たちが建てたものだろう。鐘の句であるので「鐘塚」と呼んでいる。

穴薬師

溝祭の県道沿いに天空を摩して立つケヤキの大樹が、がっしりと張った根元のうろ奥深く、穴薬師はある。手足にできるイボを除く霊験があるので、イボ薬師とも呼ばれ、近隣の信仰が厚い。

子育地蔵

大久保三ッ屋の県道端の慈悲深い双体地蔵尊である。昔からわが子の健やかな生育を願わない親はいなかった。その願の寄り合いといえよう。川原島新田の人たちの名もある。1702(元禄15)年建立。盗難にあい熱海で発見、返送され現在地に再建。

日枝神社

小倉の鎮守で、延歴の昔、伝教大師が不入(船尾)の山に大寺院に建てたとき、その守り神として、ふもとの村々に山王21社を勧請したが、その中の1社がこの日枝神社の始まりだという。祭神は大山昨命。

野田宿

江戸時代、伊香保街道の野田宿は、商家が軒を並べてにぎやかな宿場であった。森田家が本陣で、細川候の奥方や、高野長英その他有名な学者や文化人が泊まった記録がある。

ま〜も

産泰様

妊婦は安産枕を借り受け、無事にお産が済むと、枕をもう一つ添えてお礼参りをする。小倉日枝神社境内、春祭4月1日。

吉岡街道

駒寄小学校西、旧道(佐渡奉行街道と伊香保街道)の別れ道に建てられている道しるべ。自然石に「右えちご、志ぶ川、左い可ホ、ミづさハ」とある。裏面に「寛政12庚申(1800)」とある。町指定文化財である。

迎え火

七夕の晩から13日の迎え盆まで、毎晩、家々の街道端で麦わらを燃やし、10万億土からの遠来の客を迎えた。「七晩焼」といって盆前の一コマであった。

吉岡川

明治地区に源を発し、吉岡田んぼをうるおし、漆原東から利根川に注ぐこの川が、仲をとり持って1955(昭和30)年4月1日吉岡村が誕生した。1991(平成3)年4月1日から町制が施行されている。

桃井の館

1879(明治12)年7月20日、伊香保にお成りになる英照皇太后(明治天皇の母)が、森田文字之助の桃井館に立ち寄られ、20分間休憩された。この上ない名誉なことであった。町指定文化財となっている。

や〜よ

秋祭り

そろいの衣装で、老いも若きも一つになって大久保宿をねり歩いたのは、鎮守三宮神社の本祭である。6台の屋台が、笛、太鼓の音もにぎやかに、溝祭から出される獅子舞を先頭に、三宮神社にのぼりあげて、神霊を慰めた。1988(昭和63)年5月4日、50年ぶりに臨時大祭が催された。

上八幡の獅子舞

1523(大永3)年以来、桃井藩麿守が守り刀と共に奉納して神の加護を祈願したことに始まる。稲荷流獅子といって明治神宮に奉納したこともある。

馬場の三太夫

1712(正徳2)年、蚕飼育研究20年の経験をもととして「蚕養育手鑑」を著わした。農学書として本邦2番目である。北下山下に建つ墓は、町内ただ一つの県指定史跡。

ら〜ろ・わ

船尾滝

水沢山の西南火口壁にかかる県下第一の名瀑で高さ約72メートル。滝沢川の源流をなし、四季の景は筆舌に尽くし難い。町指定名勝地となっている。

水除け観音

利根川が氾濫をくり返して、漆原の田畑は川原に変ってしまった所が少なくない。松添川原東、吉岡東等の地区は大方河川敷となり果てた所が多い。これ以上の水害は受けたくないという漆原の人たちの切ない願で堤防が築かれ、その上に健立された観音様である。夕日に映えるうるわしい姿は、永遠にこの地を守ってくれることであろう。

桃井城

大藪の城山に残る桃井城跡は、本丸、二の丸、空濠など、土居を見せて、淋しく残っている。中世のもののふたちが、「桃井郷13ヶ村」を見下ろして、城の守りについた姿を思い浮かべるとき、世の移り変りに胸のつまる思いがする。

忠霊塔

日清、日露から太平洋戦争までの戦死者333柱を祭る塔で、駒寄小学校西隣と明治小学校東隣にある。小倉15、上野田25、下野田44、北下31、南下38、陣場15、大久保77、漆原70、遺家族転出者48、今日の繁栄の犠牲となられた方々である。

憩の家

村の老人たちが集まって、楽しく過ごすための場所を造ろうと思い、互にお金を出し合ったり、寄付金を集めたり、役場に協力を求めたりして造られた集会所である。1967(昭和42)年、県内では最初のものであるという。1986(昭和61)年老朽の為解体された。尚、1982(昭和57)年現在の老人センターが新築されている。

城根清水

城山のふもと、北下の十日市に何百年もの昔から、こんこんと湧き出る泉が根城清水である。区画整理で湧き水の場所は見えなくなった。根城川の源で、昔は城の人馬の飲み水、辺りの野良で働く人たちののどをうるおしてきたという。

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ブゲン

食べることと群馬の郷土かるたが好きなブロガー。好きな食べ物は「餃子」好きな上毛かるたの札は「よ」 かるたが繋いだご縁で光GENJIの佐藤寛之氏とラジオ共演を果たし、ライブイベントでは司会や補助を頼まれたことも…。自分には無縁と思われた世界を知り、戸惑いもあったがやれば出来ると自信に繋がる。つまり何が言いたいかというと、かるたって人と人を繋げる不思議な魅力がある♪

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